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WORK MILL

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本当は洞窟で仕事がしたい

仕事場が汚い。日当たりも悪い。

読んだことのない、そして読むつもりもない本が山積みだ。枯れかけの観葉植物に見覚えのない書類。床はなんか所々剥がれており、たまに靴下が引っかかって破ける。わずかに中身の残ったペットボトルが、景観を大いに損ねている。

ギリギリ生きている植物

感染症の影響で、すべての仕事がリモートワークへ切り替わった。僕は本業で業務ソフトのプロダクトマネージャー、副業で旅行ライターとして働いていて、どちらの業務も部屋にある書斎でおこなう。

勤務先はIT企業っぽく、完全にペーパーレスで仕事が進む。Slackで勤怠を入力したらMeetで会議して、ホワイトボードの代わりにMiroに図を書いてGoogle ドキュメントで議事録を共有、休憩時間にはDisicordを繋ぎながらたまにclusterのメタバース空間に入る。書いていて気持ちが悪くなってきたが、それほど横文字ツールを使いまくっている。デジタルシフト万歳。まるでいつも誰かが隣にいるかのように、同期しながら働くことができる。

だからPC一台あれば、あとは何も要らない。仕事場にはPCさえ置ければいい。モノトーンを基調とした、シンプルでミニマルなデスクがいい。いや、専用の仕事場すら不要である。もはや仕事はどこでもできる。旅行ライターとして、旅先が全て仕事場になる。旅が文字通りのライフワーク。仕事と日常の垣根が無くなっていく——

とか言いたい。

でも全然違う。

仕事がペーパーレスなのは本当だ。でもPCさえ置ければいいはずのデスクには有象無象のガラクタが散乱して、肝心のPCを置く場所がない。何度片付けても、3日で散らかる。何故なんだ。本当にわからない。気がついたらラムネの空箱とか、Amazonの段ボールが散乱している。用途不明のケーブルがツタのように床にひしめいている。

シンプルでミニマルとはほど遠い、複雑怪奇な空間である。知らんでかい葉っぱもある。

だけど、なぜか集中できる。というか僕はこの書斎でしか仕事ができない。カフェやファミレスでは捗らない。おしゃれで洗練された店であればあるほど、なおさら捗らない気がする。

あるいはオフィスで人と会って、議論を交わすのも確かに楽しい。他部署の人とばったり会って、立ち話をしている最中にアイデアを思いつくことも多い。これからオフィスはどんどん、偶発的なコミュニケーションを生むための場所に変わっていくのだろう。

だがやっぱりそれと同じくらい、僕には一人でこの汚い書斎にこもる時間が必要なのだ。

そもそも振り返ってみると、いい仕事ができたなあ、と自分なりに思う瞬間は、誰とも話していないことが多い。プロダクトマネージャーはどんな製品をつくるのか、企画を立てたり機能要件を定義したり、「決める」ことが主な仕事だ。顧客の要望、リソース、売上、エンジニアの好み……。いろいろな変数を勘案しながら、幅広い部署の人々と仕事を進めていく。ただ全員が喜ぶ選択肢はなかなか存在しない。決めるというのは捨てるということでもあるから、毎回めちゃくちゃ悩む。吐くほど悩む。悩むことが仕事だとも言える。

これまでの経験上、みんなの意見を取り入れようとしたプロダクトは、ぼんやり掴みどころがなくて、誰にも使われないことが多かった。一方で一人悶々と考え続けた意思決定には、その人独特の切れ味というか、強い意志が宿る。そうやって完成したプロダクトは、一部には嫌われても、一部には熱狂的なファンがついたりする。

だから重要で難しい判断になればなるほど、議論では決めない。もちろんいろんな人に相談したり、意見をもらったりはするが、本当の最後は一人で決める。仕事場に閉じこもり、SlackもDiscordもオフにして、時にはインターネット回線を抜いて、誰とも喋らないで悩む。そういうやり方が僕には合っている。

ゆかりのない地方の新聞

でかすぎる自転車

仕事場のことを考えた時に、思い出す場所がある。人類最古の絵画とされる「ラスコーの壁画」だ。かの有名な洞窟の周辺には、人の住んだ痕跡が不思議なほどに、全くなかったらしい。一説によると、旧石器人たちは生活の場と、「創作活動」としての場を分けていたというのだ。彼らは普段暮らしている場所から遠く遠く離れた洞窟に籠り、躍動する動物たちを描いていた。

これは書斎にこもって、仕事をするのとなんだか似ているではないか。確かに洞窟は暗くてジメジメして集中できそうだから、旧石器人とは気が合うかもしれない。それくらい人目のつかない場所で創作に励んでみたい。

そもそも書斎の「斎」の字の語源は、「ものいみ」にあるという。ものいみとは特定の期間、日常的な存在から離れ、穢れから逃れる行為を指す。世俗から断絶され、こもり、没頭する。書斎とは元来、そういう場所なのだ。日常から断絶されたラスコーの壁画は、やっぱり2万年前の書斎なのかもしれない。

僕の仕事場にもそうあってほしい。デジタルに接続する場所でも、人と会ってコラボレーションする場でもない。むしろ非同期で、非接続であるための場所。張り巡らされた日常のつながりの網を裁断し、つながらない自分を守るための場所。突き詰めれば、本当は洞窟で仕事がしたい。仕事と日常の垣根をなくしていくなんてとんでもない。垣根どころか、石灰岩の壁で囲まれたい。

ああ、散らかったこの書斎はきっと、僕にとっての洞窟なのだ。そうに違いない。シンプルでミニマルでモノトーンなデスクには憧れるが、見栄えばかり気になってしまうだろう。それでは日常を切り離せない。世俗から離れるとは、「他人からどう思われるか」という不安から離れることでもあるから。

整頓もしないし捨てもしない。思いつきで買ったものが雑然と溜まっていく。でもそれでいい。それが許される。そんな心の聖域があるからこそ、安心して自分だけの世界に浸れる。一人で悩める。薄暗く、まるで鍾乳石のように凸凹しているこの書斎は、僕の理想の洞窟なのだ。そうに違いない。よって掃除する必要はない。そう言い聞かせている。

プロダクトをつくるにせよ、記事を書くにせよ、何かをつくるのに重要なのは、「動機」だと思う。必死に議論しても考えても、結局のところ正解はない。そんなとき最後のよるべとなるのは、「どうするべきか?」という論理ではなく、「どうしたいのか?」という動機なのだ。そういう動機は、検索しても出てこない。自分の中にしか存在しない。繋がりを断ち切り、自分の動機とだけ接続できる散らかった仕事場に、これからも篭りつづけたい。