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AI時代の今、なぜ「ケア的対話」が大切になるのか?

戦略デザインファームBIOTOPEを立ち上げ、戦略とデザインを掛け合わせて価値を作り出す「戦略デザイナー」として、企業のビジョン策定やイノベーション支援の仕事をしてきた佐宗邦威さん。現在は、BIOTOPEの代表を辞任し、新たな模索を続けています。そんな佐宗さんが仕事や普段の暮らしの中で見えたこと・考えていることを、手帖を見せてもらうようにカジュアルに公開していくビジネスエッセー連載です。

「さあ、未来を描こう」で手が止まる理由

僕はこれまで、たくさんの組織と一緒にビジョンをつくる仕事をしてきた。未来年表を描き、ポストイットに妄想を書き出してもらい、ありたい姿を物語にしていく。そういう場をつくるのが、戦略デザイナーとしての僕の仕事の中心だった。

ただ、ここ数年、少し違和感を覚えるようになった。「ポジティブな未来を描きましょう」と投げかけても、どこか手が止まってしまう人が増えているように感じるのだ。

実際、自分のケースで考えてみても、日々スマホに入ってくるニュースを見て、未来に対してネガティブな感情を持つことが増えている。AIの進化により人類が滅亡するかもしれないという識者の話を聞いたり、気候変動によって激甚化する災害も頻発したりしている日々だ。人口減少はいよいよ待ったなしになっている。そんな中で「未来に希望を持て」と言われても、いきなりパッとポジティブな未来は浮かんでこない。

考えてみれば当然かもしれない。将来への不安、組織の中での居場所のなさ、言葉にできないモヤモヤ。そういうものを胸の内に抱えたまま、「明るい未来」を描けと言われても、気持ちがついていかない。不安で心がいっぱいの状態では、未来を想像するためのエネルギーが生まれてこないのだと思う。

だから最近、僕が大切にしているのが「ケア的対話」だ。ケア的対話とは、議論をしたり、問題を解決したりするための対話ではない。相手が大切にしている思いや不安を、評価せずに、そのまま受け止める対話のことだ。

AI時代に深まる、「受け入れられたい」という渇き

なぜ今、ケア的対話なのか。

一つは、AIの存在だと思う。いまや、わからないことがあってもAIがすぐに答えを返してくれる。企画書のたたき台も、悩み相談への模範解答も、数秒で出てくる。「問題を解決する」ことのコストは、劇的に下がった。

でも、答えが手に入りやすくなるほど、人はむしろ孤独になっているのではないだろうか。正解はもらえても、「あなたがそう感じるのは自然なことだよ」と受け止めてもらえる体験はむしろ減っている気がする。

人間には「誰かに受け入れられたい」という、ほとんど本能に近いニーズがある。それは正しい答えをもらうこととはまったく別の欲求だ。

ここで、対話を2つに分けて考えてみると見通しがよくなる。

問題を解決する対話:
課題を特定し、システムを見通し、論点を整理し、解決策を出す。ビジネスの現場で僕たちが日々やっているオープンエンドな議論。

受け止める対話:
相手の感情や大切にしているものに耳を傾け、ただそこに在ることを認める対話。

これまでの組織は、ほとんど「問題を解決する対話」だけで回ってきた。でも、問題解決がAIでできるようになってくるこれからの時代、人間同士の対話に残る価値の多くは、後者の「受け止める対話」の側にあるのではないかと思う。

弱音を吐けるチームは、なぜ前を向けるのか

これはチームや組織にもそのまま当てはまる。

強いチームというと、いつも前向きで、ネガティブなことを言わない集団をイメージするかもしれない。でも、僕の実感は逆だ。弱音を吐き出せるチームのほうが、結果として前を向くのが早い。

不安やモヤモヤを表に出さないまま抱えていると、じわじわと人のエネルギーを奪っていく。だが、一度言葉にして、誰かに受け止めてもらうと、不思議と荷物が軽くなる。そうして空いたスペースに、ようやく「次はこうしてみたい」という妄想が入り込んでくる。「ケアをされていること」はビジョンを描く前提条件なのだ。

とりわけ孤独なのが経営者だ。組織のトップには、弱音を吐ける相手がほとんどいない。社員に不安を見せれば動揺が広がるし、社外の人には事情を説明しきれない。だからこそ、経営者にとってコーチングのような「ただ聴いてもらう場」が大きな意味を持つ。

かく言う僕も、BIOTOPEの経営をしている時は、必ずエグゼクティブコーチをつけるようにしていた。会社のメンバーに対話する相手がいなかったわけではない。むしろ頼もしいメンバーが多く、よく議論していた。

それでも、メンバーとの議論の前提として、経営者にはリーダーとして前向きな未来を提示するプレッシャーがどうしても生まれる。ところが、必ずしもそういう未来が見えているとも限らない。

だからこそ、経営者には自分自身のありのままの感情や思考を受け止めてくれる存在が必要なのだ。僕は退任後、エグゼクティブコーチングの仕事も始めた。それは「経営者には自分自身の弱いところと、自分自身のまだ曖昧なビジョンを受け止めてくれる安全な場が必要だ」という原体験がベースになっている。

難局を乗りこなすための「書き出す」対話

実はケア的対話は、僕の過去のプライベートの中でも大きな役割を果たしてきた。とある時で、家族がピンチになる事件があった。その時、家族と一緒に弱さを共有し、前を向くためのミニワークショップを自宅近くのデニーズでやったことがある。やったことはシンプルだ。

まず、「あなたは、今何が不安ですか?」を書き出す。そして、一人ずつ読み上げながら共有する。ただ共有するだけで、突っ込んだ議論はしない。

次に、「あなたが、ワクワクする未来はどのようなものですか?」を書き出す。同じように、一人ずつ読み上げながら共有する。最後に全員で、フリーな対話する。それだけだ。

書き出すことの良さは、感情と人を一度切り離せることだ。口頭で向き合うと、言葉はどうしても相手への攻撃や防御になってしまう。けれど、紙の上に出してしまえば、それは「あなたの問題」ではなく「二人で一緒に眺める対象」になる。

そしてもう一つ、意外に大事だと思っているのが、適度にスルーすることだ。

受け止めるといっても、相手の言葉のすべてに反応し、すべてを解決しようとする必要はない。むしろ全部に真剣に応えようとすると、聴く側が疲れ切ってしまうし、話す側も「何か答えを出さなければ」と構えてしまう。「そう思ったんだね」と受け取ったら、あとは少し流しておく。その軽さが、長く続くケアの関係には必要なのだと思う。

また、ケア的対話は他者とだけでなく自分自身とも行える。

僕にとって、その手段がジャーナリングと瞑想だ。ジャーナリングは、頭の中にあるものを評価せずにすべて紙に出していく、自分との対話である。そして、瞑想は浮かんでくる感情や思考をただ眺め、それに巻き込まれずにいる練習だ。どちらも、自分の中の不安を「なかったこと」にせず、そのまま受け止めるための技術だと思う。

自分をケアできない人は、他者を本当の意味でケアすることも難しい。ケア的対話のスタート地点は、案外、自分自身なのかもしれない。

相手の「魂」を見るように聴く

では、ケア的に聴くとは、具体的にどういうことなのか。

僕がいつも意識しているのは、相手の言葉そのものではなく、その奥にある「魂」を見るように聴くことだ。

人が語る言葉は、しばしば不完全で、ときに矛盾している。愚痴に聞こえる言葉の奥に、実はとても大切にしている価値観が隠れていることもある。言葉の表面で「正しいか、間違っているか」を判断し始めた瞬間に、対話は「解く対話」に戻ってしまう。そうではなく、「この人は何を大切にしているから、こう感じているのだろう」と、その人の存在の深いところに耳を澄ませる。

そしてもう一つ、自分の中に安全装置を持っておくことも大切だと思う。何があっても安心して話せる仲間、ジャーナリングのノート、立ち返れる場所。そうした安全装置があるからこそ、人はリスクをとって未来に踏み出せる。

前を向く前に、受け止めてもらう

いきなりポジティブな未来を描くのは難しい。それは、あなたが弱いからではない。不安を置いておく場所がないまま、「前だけを向け」と言われているからだ。

ビジョンを描くことと、ケアし合うことは、実は地続きなのだと思う。まず受け止めてもらう。そうして心に余白ができたとき、人はようやく、自分の未来を自分の言葉で描きはじめる。

あなたには、弱音を吐ける相手や場所があるだろうか。そして、あなた自身は、誰かにとってのそういう存在になれているだろうか。

アイキャッチ制作=サンノ
編集=鬼頭佳代/ノオト