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LGBTQアライとして。ノンバイナリー(仮)として。 | 八木橋パチの #混ぜなきゃ危険

カレシとかいないの?」 −− 別に深い意味がある質問ではありません。ただのテンプレです。

「よい先輩でいたいと思っています」「あなたに対し一定の興味を持っています」 −− 示したかったのは「そういうスタンスであなたに接していますよ」ということであり、それをとっかかりに相手の「こちらに対する自己開示レベル」や「プライベートな話題の許容度合い」を測り、お互いにとっての「心地よいコミュニケーション」を探りつつ調整しようということに過ぎませんでした。

こんなコミュニケーションがNGとなったのはいつ頃でしょうか。10年前? もっと前の20世紀終わり頃? 私自身がこの質問を封印したのは、おそらく15年くらい前だったと思います。

自分が30代半ばを過ぎて「相手よりも年上の男性」となるケースが増えたこと。知名度のある企業に就職したこともあり、それまでの「フリーター」という立場のときよりもどこか「権威的」に捉えられがちになったこと。そして時代も、セクハラやパワハラに敏感であることを求めはじめていました。

こちらとしては「気軽にテンプレを使用しただけ」に過ぎないつもりが、相手の違う反応を引き起こしてしまう機会が増え、言葉が引き起こす効果が自分の意図と明らかに乖離してくるのを実感するようになっていました。実際、相手の目の中に「なんらかの疑惑や不安」を見出すことが増えていました。

悲しかったけれど「『下心があるのではないか?』と相手を不安にさせてしまう質問なのだな」と認めざるを得ませんでした。

カノジョとかいないの?」 −− それから数年後、まったく同じように「よい先輩でいたい」「あなたに一定の興味を持っています」という意思表示を兼ねた「よいコミュニケーションを目指した質問」が、同性の男性に対してもNGとなりました。

当時、私はLGBTQのアライ(サポーター)となり、この言葉がゲイの男性に大きな心理的プレッシャーを与えていることを学びました。自分がゲイであることやトランスジェンダーであることを隠している人にとって、恋人に関する話題が「穏便に終わらせるのが難しいもの」であり、心をざわつかせるものであることは誰でも容易に想像できるでしょう。

かくして、私は相手が女性であれ男性であれ、異性の恋人を前提とした質問はしなくなりました(とは言え、これは相手との関係性によるものなので、話の流れで聞くこともあります)。

ここまで「異性の恋人に関する質問」についての自分の経験を書いてきましたが、年配男性の多くは似たような経験や心持ちの変化を体験してきているのではないでしょうか。

そして今や、時代はさらに進んで「人は恋人を持ちたがるものである」という考え方自体も、揺るがされているのです。

「私はノンバイナリー(仮)です」

「ノンバイナリー」という言葉は宇多田ヒカルさんが昨年カミングアウトしたことで、一気に世間に広く知られるようになりました。男女のどちらにもはっきりと当てはまらない、または当てはめたくない、あるいはその日その時で変化するものという性自認です。

…と書きましたが、正直に言えば、自分がどこまでノンバイナリーをちゃんと理解できているのか、私は自信が持てずにいます。いや、少々当惑しているといった方がより正確なのかもしれません。

私には、「私はノンバイナリーです」と宣言したい気持ちが強くあります。

私たちが暮らす社会が、性別と社会的役割が強く結びついている「性別役割社会」であることは誰も否定できないでしょう。私たちは性別により異なる「もの」や「こと」を与えられ、性別により周囲から期待される行動に従って暮らしています(学校の授業や制服、女性専用車両や公共のトイレなどを想像してください)。それ自体に不満があるわけではないのですが、ただ、私はそれが行き過ぎていると感じていて、この現状を容認せず、変化させたいと考えています。

「心も体も男性だけれど、思想としては性役割の枠に嵌め込まれたくない。両方の性役割を持ちたい(あるいはどちらの性役割も持ちたくない)」という、いわば「思想的ノンバイナリー」とでも呼べる私のような人は、少なくないのではないでしょうか。

一方で、ノンバイナリーを「ポジティブなもの」として捉え「自分もそうだ」と宣言することが、ノンバイナリーであることに苦しんでいる人には嫌な思いをさせてしまうのではないだろうか…と、ちょっと心配です。

これが単なる考え過ぎや、自分の捉え方の誤りであるのならいいのですが、「理屈屋が自分の苦しみを矮小化している」ように受け取られてしまうのではないか? という気もするのです。 これは私の持論に過ぎませんが、意識的か無意識かはともあれ、ほとんどの人はあいまいな境界を持つグラデーション的な様相(スペクトラム)で、自己を男女のいずれかだと認識しているのではないでしょうか。つまり、ほとんどの人は「100%男」「100%女」ではなく、いくばくかは両方の性を自分の中に抱えているのではないでしょうか。