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【クジラの眼 – 字引編】第8話 バイオフィリア

働く環境、働き方の調査・研究を30年以上続ける業界のレジェンド、鯨井による連載コラム「クジラの眼 – 字引編(じびきあみ)」。働く場や働き方に関する多彩なキーワードについて毎月取り上げ、鯨井のまなざしを通してこれからの「はたらく」を考えます。

今月のキーワード:バイオフィリア

はじめに

「日毎に秋も深まり、紅葉の美しい季節となりました。皆様お元気でいらっしゃいますか」

「残菊の候、貴社におかれましては皆様がご壮健で、ますますご発展のこととお喜び申し上げます」

「初霜の折、紅葉も見頃を過ぎました。年末に向け、ますますご多用のことと存じます」

本稿を書いている10月下旬から公開される11月中旬にかけて、私たちが手紙の書き出しに用いる時候の挨拶を引いてみました。温暖化のせいか、実際の季節の進みと少しずれている感じもしますがそれはさておき、日本人は、俳句はもとより散文や小説、知人宛ての手紙であっても、上にあげたように自然や季節を取り入れてものを書いてきた民族です。山紫水明、花鳥風月、風光明媚….。美しい風景や自然を表す四字熟語を上げ始めたらきりがないくらいです。

とにかく日本人は美しく穏やかで「整った」自然が大好き。親しみを感じ愛でる対象としています(一方で毎年のように起きる水害や地震、人跡未踏の深い森などの「整っていない」自然、猛威や恐れを感じる自然は畏怖あるいは畏敬の対象として捉えていますが)。今回は、自然の要素を建物の中に整えることで、気分よく仕事や生活をしていこうとする「バイオフィリア」について考えてみることにします。

 バイオフィリアとは         

バイオフィリア

人間が先天的に持っている、生きているものや自然を愛好する性質のこと。

「バイオ=生命・生き物」と「フィリア=愛好・趣味」による造語。

バイオフィリックデザイン

近年「バイオフィリア」という言葉を見聞きする機会が増えてきたように思います。そもそも私たち人類は、進化の過程で先天的に生物や生気のあるものを好む心理的な傾向を獲得したと言われています。このことをドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムは50年ほど前に「バイオフィリア」と名付け、その後米国の社会生物学者エドワード・O・ウィルソンが世界に広めました。そうした自然を好む人間の特性を考慮して、室内空間に自然を持ち込むことによって居心地よく空間を利用させようとするバイオフィリックデザインに今注目が集まっているのです。

世界の16か国7,000人を超すオフィスワーカーを対象に行われた調査によれば、自然を十分に取り入れたオフィスでは、そうでない場合と比べ、働いている人の幸福度、生産性、創造性のいずれもが10%前後高かったとのことです。オフィス空間に積極的に自然を取り入れようとする動きが今盛んになっています。視線を上げると必ず植栽の緑が目に入り、鳥のさえずりや渓流の音がBGMで流れ、ときおり爽やかな風が吹き渡る。そんなオフィスであれば多くの人が気持ちよく働けるに違いありません。

バイオフィリックデザインの事例

2019年7月、丸の内の仲通りにオープンしたコワーキングスペース「point 0 marunouchi」では、自然を感じさせてくれる環境要素が数多く採用されています。その中からバイオフィリックデザインの事例をいくつか紹介することにします。

ダイキン工業〈自然の心地よさを再現する空気〉

日本人は昔から、自然と調和した生活を営み、「自然のうつろい」を身近に感じながら過ごしてきました。自然の表情が刻一刻とうつろいでいく様子に心落ち着いたり、心が満たされるような感覚を覚えるのかもしれません。しかし、人が多くの時間を過ごす屋内空間は、求めている理想の環境から離れてしまっているのが現状です。

そんな課題に対して、実際に日本各地を回って測定したデータを元にした「風」がpoint 0では再現されています。屋内にいながら、自然の要素をうまく取り込み、本来人間が求めている自然に癒されるような空気環境を体験することができるのです。

現在ここで吹いている風は、軽井沢の高原を吹き抜けていた風に手を加え、より心地よくしたものです。自然の風は一定に吹いているようであってもそこにはゆらぎが存在します。また、無風になったかと思えばフワッと少し強めに吹くこともある。そうしたことが再現されると、自然の中で風に吹かれているように感じられるのです。

もう一つ自然感を醸し出す上で大きな役割を果たしているのが風をつくり出している装置です。2m×2mほどもある壁のようなその装置は、そこで働いている人の全身を吹き抜ける「面の風」を再現することができます。天井の吹き出し口から出てくる空気の流れとは明らかに違う、日ごろ屋外で私たちが受けている本物の風がpoint 0には吹き渡っているのです。

TOA〈自然が奏でる音色〉

春は小川のせせらぎ、夏は蝉の鳴き声や波の音、秋になると虫のコーラスや木々のざわめき。移り変わってゆく自然の創り出す音には、オフィスでは通常味わうことのできない、心をなごませてくれる波動が含まれています。

point 0で通常流れている音は、小鳥のさえずりと耳を澄ますと聞こえてくる渓流の水音。目をつぶると白樺の明るい林の中に自分がいるような気がして、心地いいことこの上ありません。多くのオフィスで流れているBGMは軽い感じの音楽です。どんなに耳障りのよい音楽を選んだとしても、音楽には人によって好き嫌いがあるので、それが仕事の妨げになると感じている人が少なからず生まれてしまいます。その点、自然が奏でる音は、音楽に比べてはるかに多くの人の心を癒し、受け入れられる存在です。

ここに配置されている50台ほどのスピーカーはすべてが個別に制御できるもので、一台一台音量と音質が調整されています。そこには必然的に音のムラが生まれますが、そのあえてつくられた音のムラが、空間の利用者に自然にいる感覚をより強く呼び起こしているように思えます。

夏の夕方point 0で流れているのは、ヒグラシの鳴き声。季節と時間の経過、外の天候など、自然を感じさせる室内音響の世界にはまだまだ多くの可能性があります。これから先、音を楽しみにしてpoint 0を利用する人が増えていくかもしれません。

parkERs〈公園のような「緑」の環境〉

爽やかに匂い茂るベンジャミン、グレープアイビー、ジャボチカバ…。point 0ではたくさんの観葉植物が利用者の目を楽しませてくれています。そこは、葉の茂り方、窓からの光や天井照明でできる木漏れ日など緑の多い公園の雰囲気を感じさせる、人と植物の間の絶妙な距離感がデザインされた素敵な空間です。

現人類の祖先は、密林を出て二本の脚で立ち上がってから、サバンナという樹木が適度に点在する草原で気が遠くなるほどの長い時間をかけて進化してきました。サバンナこそが全人類共通の原風景と言ってもいいかもしれません。国や地域、年代などによらず花や緑の草木を愛する人が多い理由はそのあたりにあるのでしょう。

緑がまわりにあるとリラックスできることを私たちは感覚的に知っていますが、このことは科学的に検証されています。緑視率(視野の上下・左右それぞれ120°の中、5m以内に見える緑の割合)が10~15%あると、それ以下の環境にいる人よりもストレスが11%も下がることが明らかになっているのです。

なお、自然をたっぷり感じさせてくれるpoint 0の緑の環境ですが、裏側ではそれを維持するためにハイテク技術が活躍しています。室温、湿度、照度、土壌温度、土壌酸度、画像などをセンサーやカメラで観測し、そのデータに応じて自動灌水(かんすい)システムが給水しているのです。これによって個々の植物を適切に管理でき、メンテナンスにかかる人件費が節減されています。

おわりに

根っからのインドア派である私は、自ら海水浴や山登りを計画したことは一度たりともありません。それでも自然が嫌いなのかと言われればそんなことはなく、自宅の庭に咲いている花を眺めるのは好きですし、ときおりやってくる小鳥の声に癒されることもあります。金木犀の香りだって毎年楽しみに待っているのです。アクティブに関わる気はないけれど、自然を感じられない潤いの無い暮らしはご免こうむりたい。インドア派を自称する私にも、かつて森やサバンナで過ごしていた遠いご先祖様のDNAがきっと受け継がれているということなのでしょう。

自然と共存して生きようとしてきた日本人には、自然を管理下に置こうとしてきた欧米人(キリスト教的な自然観)よりも自然を愛でる習慣が数多くあります。毎年、花見、月見、雪見と季節ごとの自然を愛でながらお酒を飲んできましたし、秋の虫の声だって楽しむ心を持っている。自然の植物を室内に持ち込む生け花を華道として確立させているし、大きな植木を屋内に持ち込めるようダウンサイズする盆栽の技術を大いに発展させてもいます。

欧米で提唱されたバイオフィリックデザインは、日本のオフィスにこそ広く根付いていくように思われますし、どんな人にも愛されるオフィスをつくるときの一つの回答になる予感がします。愛される環境をつくる一つの手法としてバイオフィリックデザインは、今後IoTやAIの導入で合理化が進み殺伐とした雰囲気になってしまいそうなオフィス空間に、人が本来必要とする潤いや温もりをもたらす有望な手立てだと言えそうです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回お会いする日までごきげんよう。さようなら!

■著者プロフィール

ー鯨井康志(くじらい・やすし)
オフィスにかかわるすべての人を幸せにするために、はたらく環境のあり方はいかにあるべきかを研究し、それを構築するための方法論やツールを開発する業務に従事。オフィスというきわめて学際的な対象を扱うために、常に広範囲な知見を積極的に獲得するよう30年以上努めている。主な著書は『オフィス事典』、『オフィス環境プランニング総覧』、『経営革新とオフィス環境』、『オフィス進化論』など。

2019年11月21日更新

テキスト:鯨井 康志
写真:岩本 良介
イラスト:
(メインビジュアル)Saigetsu
(文中図版)KAORI