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五輪シューズに宿る「行ったり来たり」の信念 ― アシックス

 

この記事は、ビジネス誌「WORK MILL with ForbesJAPAN ISSUE05 ALTERNATIVE WAY アジアの新・仕事道」(2019/10)からの転載です。

 

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スパイクシューズに「ピン」は必要なのか─常識を疑う問いを立て、仮説検証をくり返し「濃霧」のなかを突き進む。人間中心の科学を標榜するアシックスの開発哲学に迫った。

 

靴は靴屋で買え──母が私に言った、ファッションに関する唯一のアドバイスだ。服を選んだついでに見た目の好みだけで買うと、必ず失敗する。個別の足にフィットし、さまざまな日常の動作に一日耐えられる、しかもスタイルやデザイン性を備えた靴というのは「高度なものづくりの結晶」であり、専門店でないとつくれないものなのだと。アシックススポーツ工学研究所(ISS)を訪れて、ここは母の言う「靴屋」の究極の形だと感じた。

 

ISSは、「歩く」や「走る」など人間の運動動作に着目・分析。独自に開発した素材や構造設計技術を用いることで、高機能なシューズなどを開発している研究機関だ。陸上トラック、2 種類のテニスコート、天井高約16メートルの実験用体育館などさまざまなスポーツに対応した環境が整えられ、バイオメカニクスの手法で種目や性別によって異なる運動時の身体の“ 変形”や“負荷”を分析している。日本人の足のデータだけでも動的・静的合わせて約100万人分あるというから驚きだ。

 

―アシックス スポーツ工学研究所。1985年設立。2015年に新館増設。人間の運動動作に着目・分析し、独自に開発した素材や構造設計技術を用いることにより、世界の人々の可能性を最大限に引き出すイノベーティブな技術、製品、サービスを継続的に生み出している。

 

例えば、「20〜30 代の女性で、美容や健康のためにランニングを始めたい人向けのランニングシューズ」を開発するとしよう。まず性別、年齢、ランニングのスキルや目的など、ターゲットごとに求められる機能をビッグデータから抽出する。次に、そのターゲットに適したシューズの仮説を立て、材料設計と構造設計を同時並行で行う。その際に重要なのは「パフォーマンスの最大化をはかりつつ、ケガをさせないこと」だ。

 

製品のサンプルができたら、研究所社員に被験者となってもらい、仮説の検証をする。検証結果が良くなければ、構造設計と材料設計に戻る。これを数回繰り返したのち、製品の品質保持・向上をはかるための基準値設定や新たな評価方法の研究、成形方法や材料の量産化のための研究が行われる。

 

つまり、「人間特性」「材料」「構造」「分析・評価試験」「生産技術」に関する5つの研究を一貫して行えるのが、ISSの強みである。「新しい商品は必ず進化させてからマーケットに出す。そのためには人間の動きを研究・分析しなければならない、というのが創業者の信念でした」とISS 所長の原野健一は言う。

 

―既存棟と新館をつなぐ中庭には、水景と体験型アートを配し、五感を刺激するリフレッシュスペースとなっている。

 

原点はアシックス創業時までさかのぼる。1949 年、鬼塚喜八郎が鬼塚商会を創業。翌年、当時最もつくるのが難しいと言われたバスケットボールシューズ(バッシュ)を発売した。しかし、当初は問屋にも小売にも相手にされず、自ら全国各地の競技会場を訪ねては営業をした。また世界大会に出向き、自ら選手の足を測り、人の動きを観察し、選手やコーチの生の声を聞いて商品を改良・進化させてきた。

 

その後、多くのスポーツシューズの開発・生産・販売を行い、77 年に社名を「アシックス」に変更。85 年、鬼塚は「のちにアシックスの宝になる」と商品開発の根幹を成すISSを設立した。スポーツシューズづくりにはサイエンスの要素が不可欠─そんな創業者の信念がISSには貫かれているのだ。

 

「常識という制限をかけるな」

アシックスでは、シューズの機能を8つ ─ クッション性、安定性、グリップ性、屈曲性、フィット性、耐久性、通気性、軽量性─に分類している。しかし、クッション性に優れたシューズは安定性が実現しにくく、軽量性を追求すれば耐久性が悪くなるなど、機能は相反することが多い。

 

―体の動きを撮影、モーショングラフィックスに落とし込み分析を行う場所。各レーンの下にはセンサーが埋め込まれ、体にかかる力を精緻に分析しシューズ改良につなげる。

 

そこで、これら8つの機能を適切に組み合わせ、パフォーマンスを向上させて快適に使用できるようにするための設計指針「インパクト・ガイダンス・システム」が定められている。さらに、8つの機能それぞれに目標値を設定し、新モデルは前モデルの各数値を超えなければならないというルールがある。

 

「一般的なランニングシューズはおよそ40パーツで構成されており、特性の違うパーツや材料を組み合わせるなどして、機能をバランス良く引き出していきます。サンプルは、平均4回は作成しますね。ただ、ISSが設立されたころのシューズが50 点として、数年で70 点まで進化させるのは簡単でも、90 点の製品を95 点にするのは非常に難しいのです」

 

オリンピック選手やプロ選手などアスリートやスポーツ愛好家用のシューズだけでなく、看護師専用の医療現場用シューズ、建設・土木用、厨房、消防など、ワーキングシューズも多数開発している。原野自身も、油にまみれた路面で働く特殊なワーキングブーツの研究開発に7 年をかけた。「工場などで働かれている方も一種のアスリートと捉えると、結局つくり方は一緒。動きを分析し、ニーズを捉えるということなんです」

 

―多数のモーションカメラが設置されたレーンの横には、計測したデータを管理する機材が置かれ、研究員が作業を行う。

 

古い話だが、51 年にアシックスが発売したバスケットシューズは革命的だった。吸着盤型ソールを搭載したことで、グリップが強くなり、プレイヤーの速攻や急停止といったゲームには欠かせない動きを可能にしたのだ。実はこれ、鬼塚家の夕食に出された”タコの酢の物”が着想源だという。そういった着眼点や発想力は、イノベーションの強力な切り札になるのではないか。「着眼点や発想力を鍛えるためには、『常識という制限をかけない』ことが大切です。たとえばこれが良い例だと思うのですが……」

 

そう言って原野が指し示したのは、2020年東京オリンピック、短距離走用の黒いスパイクシューズだ。持ってみると、非常に軽い。薄い足袋くらいの軽さだ。しかも、靴底にはスパイクピンがない。これは開発チームの「そもそも、ピンって要らないんじゃない?」という意外な視点から生まれたものだという。ただし、その発想はいきなり生まれたものではなかった。スパイクについて寄せられた選手たちの感想には「ピンが刺さったときの……」「ピンが抜けるときの……」という言葉が多く、「ピンはメリットだけでなくデメリットもある」という考えに至ったのだという。

 

―2020年の東京オリンピック短距離用に開発されたスパイクシューズ(プロトタイプ)。靴底に従来のスパイクピンがないのがわかる。

―2016年のリオデジャネイロオリンピック短距離用に開発されたスパイクシューズ。200m決勝に出場したフランスのクリストフ・ルメートルが着用し、3位に輝いた。

「2つの専門を持ちなさい」と、原野は研究所員に話している。ひとつの領域だけを突き詰めていけば見えるものもあるだろう。しかし、別の視点を手に入れることで靴を見る目が変わる。すると思考に余白が生まれ、この「ピンがないスパイクシューズ」のような発想につながるのである。

 

無論、ピンをなくしたことで失うものは大きい。「まったくゴールの見えない濃霧を行くようだった」と原野は笑う。しかし、鬼塚の「七転び八起き」、現アシックス会長CEO・尾山基の「失敗は大事。問題なのは失敗から学ばないこと」という言葉を胸に、チームに伴走。この黒いスパイクシューズには、そんな山あり谷ありの道のりが集約されている。高い目標を掲げ、たどり着くまで行ったり来たり、試行錯誤を繰り返す。根本からシューズを見つめる。これこそ、ISSの“ 核”である。

 

最後に原野にISSのビジョンを問うと、「スポーツでつちかった知的技術により、質の高いライフスタイルを創造する」というアシックスのビジョンが、すなわちISSのビジョンでもあると答えた。理念やビジョンはブランドそのものでもあり、また社員の生きがいや働きやすさにも直結する。「例えば、お客様は一体どこのスポーツブランドのマークの入ったTシャツを買うのか。手にする方にとっては、値段やシャツの品質以上に、企業理念に対する共感や製品に対する期待があると思う。私たちは、そこに魅力を感じてもらえるようなものをつくり続けていきたいのです」

 

2020年3月11日更新
2019年8月取材

 

テキスト:堀 香織
写真:金 東奎(ナカサアンドパートナーズ)
※『WORK MILL with Forbes JAPAN ISSUE 05 ALTERNATIVE WAY アジアの新・仕事道』より転載

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