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仕事が進まないからお香の匂いを嗅ぐ(僧侶・文筆家 稲田ズイキ)

業務効率化やリラックス、こだわり。仕事道具には、そんないろいろな期待が込められています。長い仕事経験を経て、絶対に欠かせなくなったまさに「相棒」。そんな「相棒」たる仕事道具との思い出を、僧侶・文筆家の稲田ズイキさんに教えてもらいました。

原稿が進まない。1文字目を書くどころか、机に座ることすらもままならない。

僧侶でありながら原稿料という名のお金をもらいはじめてから、もう4年は経つだろうか。それなのに、いまだにすんなり書けた試しがない。

いつも寄稿の依頼をもらうときは、Googleカレンダーで、締め切りの前々日の13〜18時を指定して、「執筆」と予定を入力している。でも、実際に書き始めるのは夜中の23時を越えてからだ。

それまで何をしているのかといえば、ずっと家のなかを彷徨っているのである。時に「ぅ〜」と、妙に湿り気のある唸り声を上げている。いやだ。書きたくない。一文字もしたためたくない。そんな途方もない私の姿を母が見て、「帰る場所を失ったルンバみたい」と言っていたこともある。

たとえ一旦書きはじめても、すぐに座礁するもんだから、たった2文字の「執筆」のスケジュールは、いつも果てしないプロセスを踏むことになるのだ。

なぜいざ文章を書こうとすると、こんなに気が重くなるのか。疑念も晴れないまま、じわじわと迫る締切に寿命を削られていたある日、たまたま友達に出くわし、その者が自分と同じ”原稿難産の者”だったことがあった。

彼はひきつった笑顔で「今、ヤバくて……」と語り出した。

聞くところによると、その現状は、過度な推敲の繰り返しにより一段落も完成しておらず、解決のヒントを本文のフォントに見出し、ヒラギノ角ゴからヒラギノ明朝に変更したり、ファイル名に吉凶の分かれ目を感じて「名前を付けて保存」を繰り返した結果、コンピュータ内が原稿の亡霊にあふれ、”墓地”のようになっていたりするのだという。私の目から見ても、それは無駄なあがきでしかなかった。わろてる場合ではない。

ぱったりと出会った京の都の道端で、互いの原稿の一進一退の攻防を労いながら、「どうして私たちはこうなってしまったのだろう……」と底を割って話を切り出したとき、彼の回答に思わず膝を打ったのだ。

「やっぱり、かしこく見られたいんすよねぇ」

その一言は勇ましかった。そうだ。原稿の進行を邪魔しているものは、「かしこく見られたい」という純然たる煩悩なのではないか。テーマ、切り口、言葉遣い、それらのすべてに自分のかしこさが表出する。

持ち前のかしこさに似合わないかしこさを演出しようとするから、私たちは原稿が書けないのではないだろうか。というか、そもそもかしこさを演出しようとしている時点で、たぶんかしこくないのだ。なんて虚しいのだろう。そうだ、そんなかしこさが織りなす二律背反を、「愚者の賢者コンプレックス」と呼べやしないものか。いや、きっとこの言葉もかしこくないのだろうけど。

見落としてならないことが一つある。それは、この彼の一言にものすごい実存を感じるところだ。その実存の正体は、彼がその紛れもない事実を知りながら、それでもまだ書けないでいるところだろう。つまり、ここまできて未だに、かしこく見られたがっているのだ。

思い出す一節がある。詩人の吉増剛造さんの「燃えるモーツァルトの手を」という詩だ。

「空全体が日記帖だ! ふりかえるな!」

そんな力強い言葉でこの詩は幕を閉じる。私は思う。原稿もまた、いま私が見ている景色そのものであり、決して振り返ったり、ましてや自分のかしこさを捏造したりなぞしてはならないのだ。

原稿は、えいや!で書かねばならない。脳みそが身体を追い越さないよう、崖っぷちからバンジージャンプする勢いで、真っ白なドキュメントに文字を打ち貫いていく。それが執筆ではないだろうか。本当に文字とすべきは、未来のことでも過去のことでもない、今なのである。ええい、ままよ!

原稿を推進させる力とは、生き延びることを目論む眼差しからは生まれず、一瞬一瞬に「死」をのぞむ眼差しから生まれるのだ。それはつまり、身近なものでたとえるなら「何があっても もういいの くらくら燃える火をくぐり あなたと越えたい」という精神的態度、いわゆる「天城」を越えないといけないのである。

そうは言っても、じゃあ実際に、えいや!を発動できるのかといえば、現実はそう甘くはない。昼ごはんに卵だけの黄色いチャーハンを食べたあとの、生ぬるい空気が漂う昼下がりに、「じゃあここで天城を越えてください」と言われたって、そんなの越えられるわけがない。せめて清水の舞台くらいのクライマックス感を用意してほしくなるもの。石川さゆりさんも流石にイオンモールでは歌わないでしょう。

『葉隠』の一節である「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」ならぬ、「原稿とは死ぬ事と見付けたり」という格言もこしらえるくらい、執筆の心得はもう十分に整ってはいるのだが、肝心の死に場所が見つからない。この原稿はいつどこで死ねばいいのだろうか。

結局また、家のなかを移動し続ける点Pに成り下がろうとしたとき、ひょんなことから導入しはじめたのが、これである。

お香。香皿にお香を立て、火をつけると、たちまち煙とともに香りが部屋中に広がる。つーと立ち昇る煙を眺めていると、なぜだろう、原稿が書ける。すなわち、天城を越えられることが多いのだ。

特に気に入っているのは、「Lisn」という京都の老舗・松栄堂が運営しているブランド。店構えからして新進気鋭という感じで、パッケージもものすごくおしゃれなのに、びっくりするくらいお手頃なのだ。もちろん、香りは言わずもがな。

お寺生まれの私にとって、お線香の匂いはもはや実家の匂いといっても過言ではない。それなのに不思議なのは、いざ儀式前にお線香を焚くと、スゥッとモードが切り替わるのである。またたびの匂いを嗅いだ猫が瞬間的にゴロニャンするように、僧侶はお線香の匂いでムニャムニャする生き物なのだ。

同じことが原稿前のお香にも表れているのかもしれない。つまり、僧侶として念仏を唱えながら極楽浄土を思うことと、原稿上で一瞬の死を垣間見ることは私のなかで繋がっている。

さらにいえば、嗅覚という五感の一つが機能することも何か関わりがあるのかもしれない。原稿はどうしても言葉だけで構成されるものだ。だからこそ、少しでも油断すれば、ただ頭をこねくり回しただけの産物となりがち。それゆえにかしこさへの執着が生まれてしまうのではないだろうか。

お香はそうした言葉だけの世界から私を解放し、原稿に身体性を与えてくれる。そういえば、『天城越え』でも天城を越えるきっかけになったのは、「移り香」だった。そう、原稿執筆に必要なものは匂いなのだ。だから、最近、原稿仕事にはお香が欠かせない。これがあるかないかで、仕事の速度が雲泥の差なのである。

とはいえ、現実がそう甘くないことは、この原稿の編集担当さんが一番知っているだろう。ほんとうに、申し訳ございませんでした。天城はまだまだ遠く、修行はつづく。

編集:ノオト