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LGBTQアライとして。ノンバイナリー(仮)として。 | 八木橋パチの #混ぜなきゃ危険

アセクシャルという新たな分類

「アセクシャル(またはエイセクシャル)」は、まだあまり知られていない言葉でありセクシャリティであるかもしれません。「人は恋人を持ちたがるものである」という考え方は、もはや揺らいでいると先ほど書きました。それは「相手に恋愛感情や性的欲求を持つことがない」というアセクシャルの特徴を意識したからです(「恋愛感情を持つアセクシャルもいる」とする分類の仕方も存在しています)。

前述のノンバイナリーが「思想」や「想い」に左右される余地がありそうなのに対し、「アセクシャル」は肉体的な欲求を伴ういわばより本能的なものであって、該当しない人にとっては想像がかなり難しいのではないでしょうか(私にはとても難しいです…)。

ちょっと、あなたのこれまでの人生を思い出してください。さまざまな場面が、「恋愛感情や性的な欲求」で彩られていませんか? 私はそうです。そしてそれを至極当然のものだと考えていました。

でもアセクシャルの当事者は、それをも超越しているのです。人間の三大欲求の一つとして長年理解されてきた性的欲求が、彼らには存在していないのです。

常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクション

ここまでつらつらと自分の体験や思いを書いてきましたが、6月は「Pride Month(プライド月間)」としてLGBTQの権利を尊重し、共に尊敬しあえる社会を目指そうというイベントが世界各国で行われた月でした。私が働いているIBMという企業でも、6月はいつも以上に多くのイベントが開催され、たくさんの対話や学習の機会が提供されました。

私がLGBTQアライであると宣言したのは、12年ほど前です。当時はまだ呼び名も社会に定着しておらず、Gが先にくる「GLBT」という名称の方が目にすることが多かった記憶があります。そしてその「分類」も今ほどは多くなく、活動に関する情報を目にする機会も今よりずっと少なかったのです。

今回書いたことは、IBM社内外で開催された6月のLGBTQアライのコミュニティー活動を通じて何度か頭の中をよぎったことでした。私は、こうした活動が、自分とLGBTQ当事者との関係性を考えるよい機会になることをとても歓迎しています。そしてこうした活動が、当事者を支援しようというアライの増加に寄与すればいいなと思っています。

でも一方で、こうした活動が増えていることが、まったく逆の「反LGBTQ」の流れも強めているという話も目にしています…。理由はいろいろとあるのでしょう。一概に決めることができないのは承知していますが、それでも以下のような理由があるような気がしてなりません。

  • 自分がこれまで築いてきた「常識」、つまり「身の回りの社会や日常の在り方を支えている考え方」が変化してしまうと、自分自身や自分の考え方も危機に晒されてしまうのではないかという不安。
  • マイノリティーの権利主張が一体どこまで膨らんでいくのかという不安。それが広がり続けていくと、自分たちに与えられていた権利が削り取られていってしまうのではないか。
  • 日常的に使っていた表現やユーモアとして楽しんできたものまでも、差別や偏見とされてしまう息苦しさ。非難がじき自分たちにも向かってくるのではないかという恐怖。
  • 人は、自分が理解できないものを理解できないままにしておくのが苦手な生き物です。私もその代表格です。

    特にここ数年、多くのことが「ググれば分かる」ようになり、簡単に分かりやすく解説してくれる人が持てはやされる傾向が強まったせいなのか、「自分が理解できないもの・こと・人・行動」への風当たりが、社会として強まっているような気がします。

    多くの人にとってそれは無意識下でのことだと思うのですが、こうした「無意識の恐怖」がLGBTQやその他のマイノリティーへの無理解や攻撃性への背景にある気がするのです。

    「誰もが、それぞれに受け入れ難い現実を受け入れて生きているのだから、LGBTQ当事者も声高に権利を主張するのではなく、もっと静かに現状の常識を受け入れて社会に溶け込んで暮らすべきだ。」

     −− 本当にそれで良いのでしょうか? 身の回りの誰かが暮らしやすくなることは、自分が暮らしにくくなることなのでしょうか?

    ちょうど先日、友人の読み書きに障害があるお子さんをお持ちのお母さんが、中学校の歴史の授業で使われたプリントの漢字に、すべてルビ(よみがな)が振ってあることにとても喜んでいました。どうやらそれは、彼女のお子さんのためではなく、その地区で暮らしている海外にルーツを持つ中学生たちのためのものだったそうです。

    誰かへの配慮が別の誰かへの配慮となることは珍しくありません。

    病気を抱えていたり、年老いた両親やペットの介護をしていたり、特定の食べ物や飲み物を身体が一切受け付けないなど、人は誰しも、見た目には分かりづらいさまざまな事情を抱えている可能性があります。そんな彼らへの配慮は、もしかしたら「未来の自分」や「未来の大切な誰か」への配慮なのかもしれないなとは思いませんか?

    アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクション」という言葉を残しました。自分の常識がちょっと邪魔になったり窮屈に感じたりしたときは、アインシュタインになった気分でこの言葉をつぶやいてみるのもいいかもしれませんね。

    Happy Collaboration!

    著者プロフィール

    八木橋パチ(やぎはしぱち)
    日本アイ・ビー・エム株式会社にて先進テクノロジーの社会実装を推進するコラボレーション・エナジャイザー。<#混ぜなきゃ危険> をキーワードに、人や組織をつなぎ、混ぜ合わせている。2017年、日本IBM創立80周年記念プログラム「Wild Duck Campaign - 野鴨社員 総選挙(日本で最もワイルドなIBM社員選出コンテスト)」にて優勝。2018年まで社内IT部門にて日本におけるソーシャル・ビジネス/コラボレーション・ツールの展開・推進を担当。 twitter.com/dubbedpachi