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「自分らしさ」の呪いを解くヒントは、南スーダン共和国のヌエル族の価値観にあり?(立教大学・橋本栄莉さん)

社会がつくってきたシステムや空気は、「呪い」である。

日本から遠く離れた南スーダン共和国のヌエル族について研究する立教大学文学部の橋本栄莉准教授は、「呪い」が秩序維持のための文化装置として機能している民族社会と同じように、日本で生きる私たちも「呪い」に捉われている、と語ります。

「自分らしさ」「人並みの幸せ」といった日本特有の呪いを解くには、どうすればいいのでしょうか。ビジネスパーソンが抱えがちな「呪い」や、それと表裏一体の「幸せ」について考えるヒントを、文化人類学者の橋本さんに伺います。

橋本 栄莉(はしもと えり)
立教大学 文学部 准教授。1985年、新潟県生まれ。2009年より南部スーダン(現南スーダン共和国)でフィールドワークを始める。専門は文化人類学。2015年、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。ジュバ大学平和開発研究センター研究員、日本学術振興会特別研究員、高千穂大学人間科学部准教授などを経て現職。著書に『エ・クウォス 南スーダン・ヌエル社会における予言と受難の民族誌』(九州大学出版会)、『タマリンドの木に集う難民たち:南スーダン紛争後社会の民族誌』(九州大学出版会)などがある。

ヌエル族と日本社会の共通点

橋本さんが南スーダン共和国のヌエル族を研究することになった経緯を教えてください。

橋本

大学の図書館で『ヌアー族の宗教』(著:E.E.エヴァンス=プリチャード)を読んで、興味を抱いたのがきっかけでした。

その本には、「ヌエル族の世界の見方や、人間はどうあるべきだと考えられているのか」が書かれていて、私たちが知っている常識とは大きくかけ離れていた。そこがとても面白かったんです。

たとえば、どんな違いがあったのでしょう?

橋本

わかりやすいところだと「意思決定」のあり方についてです。

私たち日本人は自分で考えて決めたことや、したいと思ってすることを「意思決定」と呼びますよね。

対してヌエル族の人々はすべてにおいて、精霊や神のような存在に「(自分が行動)させられている」という考え方をします。

一つひとつの行動は自分の意思によるものではない、ということでしょうか。

橋本

はい、そうです。ヌエルでは、怒っている男性がいたら、「彼はなぜ怒っているんだ?」ではなく、「何が彼を怒らせているんだ?」と聞く。

意思決定の主体が、自分よりもはるかに大きな存在なのですね。

橋本

そうです。最初は「独特な考え方だな」と感じていたのですが……。

何度も南スーダンを訪れて調査を続けるうちに、「実は日本人である私とそんなに違わないのでは?」とだんだん考えるようになりました。

意外です。どうしてそう思われたのでしょうか。

橋本

私たちは意思決定の主体は自分であると思い込んでいますが、実は他人の視線や「こうあるべき」という既存の価値観に捉われている部分も決して少なくないはず。

ヌエル族はその外的要因を「神」「精霊」などの概念で表現しますが、自己のあり方としては日本に暮らす私たちとの共通点も意外と多いんです。

確かに、過去を振り返ると「100%、自分の意思だけで決断した」とは言い切れない気がします。

橋本

ヌエル族の社会を通じて、「人はなぜ何かを信じて行動を起こすのか」という問いに向き合うこと。これが私の研究テーマの根本にあります。

盛り疲れている私たちの「呪い」とは

「呪い」についても教えてください。南スーダンは2011年の独立後も武力衝突が勃発し、各地では今も紛争が起きています。

政情が不安定な国で、「呪い」はどのような役割を果たしているのでしょう?

橋本

「なぜ自分がこんな目に遭うんだろう?」と思う出来事が起きたときや、他人が妬ましくなったとき。そうした不条理や不運を説明するために、同じ南部スーダンのアザンデでは「呪い」(妖術)という考え方が機能しています。

「悪いことをしたら呪われるかもしれない」と行動が抑制されたり、「呪われないようにしなければ」と考えて行動したり、もしくは「呪いだから仕方がない」と受け入れたり……。

不安定な社会だからこそ、「呪い」が負の感情に飲み込まれないための制御装置、もしくは秩序や集団を維持する働きかけになりえているのだと思います。

一方で、日本で生きる私たちにも何かしらの「呪い」はあるのでしょうか?

橋本

いろいろありますが、最近強く現れているのは「自分らしさ」の呪いのような気がします。

「ありのままの自分」「本当の自分」「かけがえのない自己」「オリジナリティ」といったフレーズを頻繁に耳にしますよね。

確かに……。

橋本

じゃあ「本当の自分」を作り出そうと思っても、どうすればいいかわからない、と悩んでしまう人が多いように思えます。

SNSで他人の動向を覗き見しながら、自分らしさを探っている。誰かの幸せや不幸と比べながら、今の自分を判断しようとしてしまう。

「本当の自分」や「幸せ」を追い求めること自体が呪いにもなる。ジレンマですね……。

橋本

自分を比べてしまう他者の範囲が、インターネットの普及によって拡大してしまった。そのせいで苦しみも増大している。

勤めている大学の学生と接すると、「盛り疲れ」をしている子が増えているな、と感じます。画像も動画も、「ちょっといい自分」に加工して演出しないといけない。これが続くと、心が疲れてしまいますよね。

いまは「盛らないSNS」も話題ですが、あれも盛り疲れの反動から誕生したのだと想像できます。

ビジネスの現場で、自分がいかに優秀かをアピールしようと思ったら、多少なりとも「盛り」が生じてしまうのかもしれません。

橋本

場合によっては優秀な経歴よりも、ちょっと親しみが持てるくらいのエピソードのほうが他人の心に響くことがあるのですが。特に20代のうちはその加減もよくわかりませんよね。

「盛り疲れ」を感じたときは、まずは「自分は今、盛ることに疲れているんだな」と自覚する。それだけでも心がふっとラクになる感覚があるはずです。

橋本

偉そうに言いましたが、就職活動自体が耐えられず、結局学生時代はしませんでした。

「私はこんな人間です」と自分をアピールして、認めてもらうというプロセスを想像しただけで、自分が壊れてしまいそうな不安がありましたね……。

学生時代は「就職」や「大人になること」にどんなイメージを抱いていましたか。

橋本

私自身の無知や偏見も含まれている気がしますが、「社会に出ると、自分で考えることは許されなくなる」という思い込みが強くありました。

思考を停止させて、皆と同じように振る舞わないと、世間が言う「幸せ」にはなれない。

仕事で理不尽な目に遭い、飲み込まざるを得ない場面になったとき、「大人になれ」と言われることがありますよね。

日本社会で大人になることは、思考停止とも無関係ではない気がします。

橋本

「ここから先はあんまり考えちゃいけない」「考えないようにしないと幸せになれない」

そういう風潮は今も多く残っているように感じます。

その空気を読みすぎると自分がどんどんしんどくなるし、まったく読まずにいると集団から浮いてしまってつらい。凡庸では埋もれてしまう、でも突き抜けてもダメ。

その中間の「ほどよい個性」をチューニングするよう求められることが、日本特有の生きづらさなのだと思います。

「社会人」も呪いの一種

「社会人」という言葉自体も、圧力の一種になっている気がします。

同じ社会にいるはずなのに、労働で賃金を得ている人だけが「社会人」で、主婦や無職の人は「社会人」にはカウントされない空気があります。これも「呪い」と捉えられるのでは?

橋本

「社会人」はおそらく日本独自の概念ではないでしょうか。少なくとも英語圏とアフリカでは、そう直訳できる言葉を私は聞いたことがありません。

「社会人」という概念をあらためて考え直すと、自分を表現する場面では使われない言葉だと気づきます。「立教大学の橋本です」という自己紹介は成り立っても、「社会人の橋本です」では変ですよね。

確かに。

橋本

これは文化人類学でよくやる手法なのですが、ある言葉の価値を測るときに、その言葉にくっつけられやすい表現は何かを考えるんです。

「社会人」の場合、「社会人としての自覚」「社会人になればわかる」「もう社会人なんだから」……など。 「大人はこうあるべき」という枠に自分や他人を入れたいときや、自分に対するあきらめを表現したいときにこの言葉が出てきます。

いずれも戒めやたしなめる意味が感じ取れますね。

橋本

つまり、特定のあるべき秩序に自分や他人を入れ込んで納得させるために、「社会人」という言葉が多用される。そのことに自覚的でいるほうが、「呪い」に悩まされずに済むはずです。

そう考えてみると、「社会人」とは不思議な言葉ですね。日常的に使われる用語なのに、強烈な呪いになっているような。

橋本

でも、そもそも賃金労働をしている大人だけが「社会人」扱いされる現状もちょっとおかしいですよね。

すべての人にそれぞれの「社会」があり、自分なりの距離で社会と付き合っているはず。生まれたばかりの赤ちゃんだって私たちにいろんなことを教えてくれるし、社会に問題提起もしてくれます。

分断を生み出す「社会人」という概念を自分に当てはめて落ち込むよりも、誰もが世間の一員の「世間人(せけんびと)」である、と考えてみてはどうでしょう。

誰もが等しく世間人。そう考えると肩の力がちょっと抜けそうです。

自分のダメを明らかにする

自己成長が求められる今の時代、アップデートや成長という言葉に追い立てられることに、焦りや息苦しさを感じる人も多いように思えます。

橋本

私にとって「自分をアップデートする」ことは、自分の「ダメ」が明らかになることなんです。

失敗も成功の内というきれいな話ではなく、「なるほど、自分はこういうダメさがあるのだな」と自覚する。

そこに気づくことができれば、誰かの「ダメ」も受け入れやすくなるし、他人にもちょっとだけ優しくなれます。そんなアップデートなら悪くはないと思いませんか?

上にばかり目を向けて落ち込むのではなく、自分のダメを明らかにする。

橋本

学生を見ていると、失敗することを過剰に恐れている印象を受けます。失敗しないように、他人に迷惑をかけないように、必要以上に身構えて生きている子がとても多い。

でも、人生で失敗しないなんて、そもそも無理ですよね。その前提に立った上で、ダメな自分を肯定したり、ときにはうまく逃げたりしながら生きていくしかありません。

人生、ときには「逃げ」もありですか?

橋本

ちゃんと「逃げられる」能力は、むしろ評価されていいくらいに勇気と技術、覚悟が必要な行為です。

「逃げて終わり」ではなく、
・逃げた先のことをどれだけ考えられるか
・セーフティーネットを用意しておけるか
・逃げた先で何があろうと「これでよかった」と思える覚悟が持てるか

その上で「逃げる」という選択肢を行使すればいいと思います。いまはリスクマネジメントの意識が高いぶん、逃げる技術も高い人が多いように思います。

「逃げるな」は思考力を奪う呪いの言葉にもなるので、注意したほうがいいでしょう。

確かに、「逃げ」ではなく「移動」と捉え直すと見え方が違いそうです。

橋本

最近は一度辞めた会社に戻る「出戻り転職」が歓迎される風潮になりました。

逃げて別の場所に行ってもいいし、また元の場所に戻ってもいい。人が気軽に循環できる社会のほうが、息苦しさも感じづらいはずです。

他に、社会の「呪い」に心を押し潰されないためには、どんな心構えがありますか?

橋本

フィールドワークで学んだことですが、「観察者」になって、自分の身に起きていることを俯瞰的に見るのは有効な気がしています。

フィールドワークの様子(提供写真)

「観察者」、ですか?

橋本

文化人類学は、自分の馴染んでいる文化圏とは異なる社会に飛び込み、そこに住む人と生活を共にしながら研究を深めていく学問です。

習慣や価値観がまったく異なるため、摩擦も起きるしストレスもたまる。それでも相手の文化のあり方を否定せず、リスペクトを持ち続けたまま、いいことも悪いことも飲み込む。

いいことも、悪いことも……。

橋本

その時には、傷つき疲れていく自分を、どこまで客観的に楽しめるかが問われます。

そこで、自分や周囲に起きている出来事を上から「現象」として観察してみると、見え方が少し変わってくるかもしれません。

ネガティブ感情に囚われると視野が狭くなりがちですが、あえて自分を俯瞰して見る。そうすることで、しんどさと心の距離が取れるようになる。そんなイメージでしょうか。

橋本

そうですね。あとは私の場合、「まあ、どうせ私も滅びるし」という考え方が根底にあるんですね。

だからストレスがかかる場面でも、「自分をどう眺めようか」と気持ちを切り替えやすいのかもしれません。

多くの人はなかなか「どうせ滅びるし」の域までは行けない気がします……!

橋本

すぐには切り替えられなくても、少し時間が経てば破滅的に思えた出来事の中にも「面白がれる」ポイントがひとつくらいは見つかるはず。

もしゲームをする人であれば、職場をダンジョンに見立てて「今日は新アイテムを入手してボスをなんとか倒せたな」と捉えてみてもいいかもしれません。

自分だけでは消化しきれないと感じたら、誰かに話を聞いてもらったり、さきほどは注意が必要なものだと言いましたけれども、「炎上」に気を配りつつ、SNSなどでアウトプットをしたりするといいと思います。

フィールドワークの様子(提供写真)

「幸せにならなければ」も呪いである

お話を伺っていると、「幸せ」に生きようと思ったら「呪い」を解くことも大切なのかなと思えてきました。

橋本

現代の日本社会を生きる私たちは、「幸せについて考える力」が弱いように思えます。

「幸せとは何か?」と聞かれたとき、「お金持ちになる」「おいしいものをいっぱい食べる」「「せめて人並みになる」といった漠然とした発想しか出てこない人が多いのではないでしょうか。

自分にとっての幸せをきちんと考えていないから、画一的な答えになってしまう?

橋本

「これが幸福である」と社会が定義してくれる状態は、ある意味でラクですよね。

でも、裏返せば「社会の提示する幸福の基準から外れる=不幸になる」という呪いも生じてしまう。

その呪いから逃れるためには、「自分にとっての幸せ」がどんな形なのかを考える思考する力がどうしても必要になるのだと思います。

自分の「幸せ」は何か。人生のどこかのタイミングで、各々が自問自答して見つけていくしかないのでしょうか?

橋本

でも、人生ってそもそも「絶対に幸せでなければならない」ものじゃないですよね。

そう考えると「幸せにならなければいけない」という強迫観念そのものが、私たちにかかっている最大の呪いなのかもしれません。

橋本

人間は「何かに取り憑かれている」状態が普通なんです。社会が発する「こうあるべき」という呪いに日々向き合いながら、誰もが暮らしている。

それでも生きなければいけないのなら、すべてを自分の責任にしないほうが生きやすくなる気がしませんか?

確かに……!

橋本

偉そうなことを言っていますけど、私だって毎日うまくいかないことばかりだし、毎日何かを呪っていますよ。

どこまでが自分の責任で、どこからが社会の責任か。その境界線は極めて曖昧です。

だから、嫌なことがあったら「あ、ちょっと呪われたかな」くらいに考えるときがあってもいい。すべてを自分のせいにしなくてもいいんです。

自分を俯瞰して眺めたり、呪いのせいにしてみたりしながら、自分が少しでもラクになれる方法を探していく。

それが呪いを解きながら生きていく唯一の方法かもしれません。

2024年6月取材

取材・執筆=阿部花恵
アイキャッチ制作=サンノ
編集=桒田萌(ノオト)