自分にとって大切なことを優先したら、今すべきことが見えてきた。「デザイナー」の戸田江美さんが「大家業」を続ける理由
荒川区には、昔から「尾久(おぐ)」と呼ばれる地域があります。多くの住宅が立ち並ぶ、都心にあるとは思えないほどのどかな下町です。その場所を拠点に、「デザイナー」と「大家」という一見かけ離れた仕事を両立させているのが、戸田江美さんです。
戸田さんはデザイナーとして独立後、24歳のときに祖母から築約40年の賃貸マンション「トダビューハイツ」を引き継いで大家になりました。その後、さまざまな工夫を凝らして満室が続く人気物件へと育て、2022年には新たな賃貸マンション「ロジハイツ」をオープン。
デザイナーと大家を兼業する戸田さんの周りには、彼女の考えに共感する人々が集まり、コミュニティが広がっています。
意外なスキルを組み合わせることで、戸田さんは何を実現しようとしているのでしょうか? 複数の顔を持つ戸田さんに、スキルの融合によって得られる価値と仕事観を伺います。
―戸田江美(とだ・えみ)
大家、Webデザイナー、イラストレーター。生まれも育ちも東京荒川区。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒業。面白法人カヤック退職後フリーランスとして活動。24歳の時に、空室が増えた「トダビューハイツ」の大家業を祖母から継ぐ。2019年からは空き地の活用方法を探る「想像建築」プロジェクトをスタート。2022年、同地に賃貸マンション「ロジハイツ」を建設。
24歳で引き継いだ大家はデザイナーと同じ「サービス業」
戸田さんが、荒川区東尾久にある「トダビューハイツ」の大家になったのは24歳のときですよね。もともと、大家になるつもりだったんですか?
WORK MILL
戸田
いいえ。はじめは大家業に興味がなくて。大学生のころ、一緒に住んでいた祖母から「自分の代わりに大家業をしないか?」と誘われたときは断っていました。
大学を卒業してからはWeb系の会社にデザイナーとして就職して一人暮らしをしていましたが、1年後、祖母が体調を崩してしまって。「祖母の近くにいたい」と会社を退職して尾久に戻り、フリーランスのデザイナーとして活動するようになったんです。
ちょうどカスタマイズ賃貸(※1)のパイオニア的な大家さんである青木純さんに取材する機会があり、そこでようやく大家業に魅力を感じるようになったこともあって、帰宅してすぐ祖母に「継がせてください」とお願いしました。
※1 カスタマイズ賃貸:住人が借りている物件に手を加えることが許可されている賃貸のこと。
大変なことも多そうで、大家になるのはきっと相当な覚悟が必要でしたよね……。
WORK MILL
戸田
一大決心をした感覚はないんです。まず挑戦してみて、デザイナーと大家を兼業するかどうか決めようと考えていたので、「やってみよう!」という気持ちで始めました。
何よりも、大事にしたいものを守りたくて大家になろうと思ったんです。私が大事にしたいのは「家族」。だから、大家になって祖母を助けたかったし、築年数が古くて空室が目立つトダビューハイツを盛り立てたかったんですよね。
そして、大家になってみてはじめて、大家業にはデザイナーとも通じる部分があることに気づきました。
どんな共通点があるんですか?
WORK MILL
戸田
デザイナーは、お客さまに満足してもらうためにデザインを提供する「サービス業」の仕事です。来訪者が見やすくなるように、Webサイトのデザインや設計を考えたりするのもサービスの一環になりますよね。
大家業にも同じことが言えます。大家は入居者の声を聞きながら、必要な設備などのサービスを提供していく仕事です。
だから、私は内見には基本的に立ち会っています。入居希望者の声を直接聞いて、「どんなサービスを提供すれば満足してもらえるのかな」と考えるようにしているんです。
デザインスキルで、入居者の理想と現実のギャップを埋める
今では、トダビューハイツは満室が続く人気物件になりました。入居希望者に満足してもらえるように、どんな工夫をしたんですか?
WORK MILL
戸田
まず取り組んだのは、トダビューハイツのWebサイトづくりです。
トダビューハイツは、下町のほっこりとした雰囲気も感じる物件です。古い物件を擬人化して「築40年のおっちゃん物件」と親しみを持たれるようなコピーを付けました。
戸田
ただ、トダビューハイツの世界観を表現するのは、フォーマットが決まっている不動産ポータルサイトでは難しかったので、デザイナーのスキルをフル活用してサイトを作り始めました。とはいえ、はじめは全然うまくいかなくて……。
おしゃれな雰囲気のサイトを作ってみましたが、それを見て内見した方からのお申し込みはゼロ。当時は恋人だったWebディレクターの夫から「サイトと実物のイメージが全然違うじゃん!」と笑われたほど、実際の雰囲気とはかけ離れていたからだと思います。
そこで、夫からアドバイスしてもらいつつ、トダビューハイツの雰囲気が伝わる“下町推し”で、ほっこりとした雰囲気のサイトへと作り直したんです。
サイトを臨機応変に修正できるのは、デザイナーのスキルがある大家さんならではですね。ほかにもスキルを活かした部分はありましたか?
WORK MILL
戸田
DIYした部屋の完成予想図をフォトショップで提案したことですね。気に入った部屋に長く住んでもらえるように、トダビューハイツでは壁の塗装などのDIYを許可しています。
当時は、ふすま紙とトイレの床を無料でリフォームするサービスを提供していました。その完成予想図をフォトショップで入居者の方に好みと合っているか確認してもらったら、「完成後のイメージがわきやすい」と好評でしたね。
思いついたことをすぐ実行に移せる、戸田さんの行動力がすごいですね。
WORK MILL
戸田
始める前は、白髪が生えそうなくらい悩みますよ。でも、最終的には「やってみよう!」と思って始めちゃいますね。
戸田
成果を出すことに比べたら、始めることのハードルはそこまで高くなくて。大家を継いだばかりのときも、思いついたことを行動に移すことより、トダビューハイツを満室にできないことのほうが大変でプレッシャーを感じていました。
それでも大家業を続けられたのは、周りの人が助けてくれたおかげです。調べてもわからないことがあれば、祖母や不動産業の人たちが教えてくれたので、大家業を続けるのはあまり苦ではありませんでした。
いつ頃、「これからも大家業とデザイナーを兼業していくんだ」と決めたんですか?
WORK MILL
戸田
大家を引き継いで10カ月後、初めての入居者の方が決まったときです。それまでは鳴かず飛ばずで、もうダメだと思っていて。
その方はトダビューハイツのWebサイトを通じて見つけてくださったのですが、「部屋のスペックはちょっと……と思ったけど、戸田さんの顔が見えるし、この町の雰囲気が好きだから申し込みます」と言ってくださったんです。
その言葉を聞いたとき、祖母がつくってきた入居者の方との関係性をつないでいくのが私の仕事なんだと思い、大家業をやっていく決心がつきました。
仕事もコミュニティづくりも、目標を達成するための手段
戸田さんが大家になって6〜7年経ちました。いちばん大変だったのは、やはり継いだばかりの頃ですか?
WORK MILL
戸田
いいえ、2022年に賃貸マンション「ロジハイツ」を建てたときですね。
2018年頃、祖母が長く貸していた荒川区町屋にある借地が更地となって戻ってきて。その土地に、新たなマンションを建てることにしたんです。
戸田
不動産屋からは、「大手ハウスメーカーに物件を建ててもらって、売却や賃貸をすればラクだよ」と勧められましたが、その言葉にあまり納得できなくて。
こだわりのない物件を建てたら、個性的な民家が立ち並ぶ荒川区の個性を潰していく一端を担ってしまう気がしたんですよね。そこの土地に私が面白くない建物を建ててしまうことを良しとしてもいいのか、と思ったんです。
また、周りにはいろいろとチャレンジしている大家さんが多かったので、「まだ何ができるかわからないけど、私にも何かできる余地があるのかもしれない」とぼんやり考えたんです。
「早く物件を建てて収益をあげたい」とは思わなかったんですか?
WORK MILL
戸田
思いませんでしたね。目先の収益を優先しなかったのは、大家業は半分、ライフワークでやっているものだからだと思います。
もちろん、お客さまが関わる部分は仕事だと思って一生懸命に取り組みますが、前提として「楽しい」と思ってしていることなので、いくらでも時間を使いたい。
そうしてがんばった先に、収益がついてくると思っています。
だから、こだわりの物件をつくるために、空き地の活用方法を探る「想像建築」プロジェクトを2019年にスタートさせたんですね。
WORK MILL
戸田
はい。想像建築プロジェクトは「物件のコンセプトを決めること」を目標に、地域の人とつながれそうなイベントをロジハイツの建築予定地で開催したりしているものです。ほかにも、荒川区の魅力に触れられる街歩きイベントやマルシェなども。
その様子を見ながら、これから建つロジハイツのコンセプトを「町に長く住みたくなる賃貸マンション」にしたんです。
戸田
ロジハイツは、誰もが関わりたくなる余白の“関わりしろ”がゆるやかに持てる物件を目指すことにしました。
私は荒川区がすごく好きなので、この町に愛着をもって住んでくれる人を増やしたいんですよ。知り合いが町に増えていくほど、町への愛着が高まるだろうなと思って、ロジハイツは地域との交流を育んでいける物件にしようと思いました。
でも実は私自身、人との距離感が近いのは苦手で……。だから、訪れる人々それぞれが自分のペースで交流できる、という意味で“関わりしろ”を持てる場を目指しました。
1階には喫茶店、屋上にはシェア菜園を設けています。想像建築プロジェクトで知り合った人たちが来店してくれたり、菜園を契約してくれたりして、今では地元の人たちがみんなでゆるやかにつながれる場所になっていますね。
新しいコミュニティが生まれたんですね! コミュニティを広げるコツはあったのでしょうか?
WORK MILL
戸田
私にとって、コミュニティを広げるのは目標ではなく、目標を達成するための手段でした。
私の最終的な目標は、尾久が「おばあちゃんになっても楽しい町」であること。そのために、住んでいる人が楽しいと思える物件をつくったり、地域の人が集える場所をつくったりしている。その具体的な手段が、デザイナー業や大家業だったりするんです。
尾久の魅力ある「点」と「点」をつなげていきたい
戸田さんのように、興味のあることを見つけたり、アイデアを思いついたりしたとき、うまく踏み出す方法はあるのでしょうか?
WORK MILL
戸田
私にとって、コミュニティを広げるのは目標ではなく、目標を達成するための手段でした。
私の最終的な目標は、尾久が「おばあちゃんになっても楽しい町」であること。そのために、住んでいる人が楽しいと思える物件をつくったり、地域の人が集える場所をつくったりしている。その具体的な手段が、デザイナー業や大家業だったりするんです。
たしかに、時間は有限ですもんね。
WORK MILL
戸田
また、迷ったときに指標になる人がいれば、今後の選択をしやすいはずです。
私は明治・大正期の女性起業家として活躍した広岡浅子さん(※2)が好きで、道の選び方の指標になっています。
広岡さんは「今、自分に何ができるか?」を常に考えながら生きていた人です。傾いた家業を立て直そうと奮闘したり、女性たちのために働く場所をつくったりと、目の前にある問題を自分ごと化して行動し続けました。
迷ったとき、そういう目標となる人のことを思い出しては、「私も同じようにがんばってみよう」と思い直すようにしています。
※2 広岡浅子:明治時代の女性実業家。大同生命の創業者の一人。女性が働くことの珍しかった時代に、嫁ぎ先の立て直しに加わり、そこから教育や生命保険など、さまざまな分野に参画しながら実業界で存在感を放った。
指標となる人がいれば、より自分らしく目標まで辿りつけそうです。最後に、今後の目標を教えてください。
WORK MILL
戸田
おばあちゃんになっても尾久が楽しい町であれるように、地元の人がゆるやかにつながれるトダビューハイツやロジハイツのような場所を増やしていきたいですね。そして、みんなが歩き回りたくなる町にしていきたいです。
ロジハイツが建ってから、近所にある尾久の原公園でラジオ体操や犬の散歩をしたあと、屋上の菜園に立ち寄り、1階の喫茶店でコーヒーを飲んでから1日をスタートさせるようになった人もいます。
ますます多くの方が尾久で素敵な日常を過ごされるようになったのですね。
WORK MILL
戸田
そんなふうに、町の魅力ある「点」と「点」をつなげられる場所を増やしていけたら、町にもっと愛着を持てたり街歩きをもっと楽しめたりする人が増えるんじゃないかなと思っています。
ただ、接続点となる場所を次々と建ててしまうと、そのスピード感が尾久のゆったりとした空気感と合わないような気もしていて。私がバリバリやりたいタイプでもないので、やるべきときが来たら思い切って行動できればいいなと思いながら生きています。
2023年3月取材
取材・執筆:流石香織
写真:小野奈那子
編集:桒田萌(ノオト)