【クジラの眼 – 字引編】第12話 UX/user experience(ユーザー・エクスペリエンス)
働く環境、働き方の調査・研究を30年以上続ける業界のレジェンド、鯨井による連載コラム「クジラの眼 – 字引編(じびきあみ)」。働く場や働き方に関する多彩なキーワードについて毎月取り上げ、鯨井のまなざしを通してこれからの「はたらく」を考えます。
今月のキーワード:UX/user experience(ユーザー・エクスペリエンス)
はじめに
「モノより思い出」
1999年、クリエイティブディレクターの小西利行氏が日産自動車「セレナ」のCMのためにつくったコピーです。私たちに世の中の価値観が変わることを予見させ、変わっていく方向性を指し示す名コピーでした。CMを見聞きした人の多くが「ああ、そうだなぁ」「そういう考え方があるんだなぁ」と思ったものです。
21世紀を目前にしたタイミングでこのコピーがつくられたことに何か意味があるようにも思えます。さらにミレミアム世代の先頭を走る人たちがちょうど思春期を迎えた頃に流れていたこのCMは、所有欲が薄いという彼らの特質を形作るのに多少なりとも影響していったのかもしれません。
いい「思い出」をつくれそうだと感じた消費者は、その「モノ」を買いたくなる。いい「思い出」が残れば、その「モノ」を大切に持ち続けようと私たちは思うに違いありません。今回のキーワードは「UX/user experience」。製品・サービスの購買意欲や購入後の利活用に大きな影響をもたらす「消費者の体験」の話です。
UXとは
UX【user experience】
製品やサービスを使うことによってユーザーが得る理想の体験(ワクワクしたり、嬉しくなったり、「これって本当にいいな」と思ったりするような体験)のこと。
UXが注目されるようになった背景
消費者にとってどこの企業の製品を買っても大差がないコモデティ化の進んだ社会。「さらば価格競争。コモデティ化の罠から抜け出せ!」を標榜して米国のジョセフ・パインとジェームス・ギルモアは、1999年に書籍『経験経済』を著しました。彼らはその中で、原材料、製品、サービスに続く経済価値として「経験」があることを提言したのです。
これは「ユーザーは単に製品やサービスを消費するのではなく、その消費から得られる体験そのものに価値を見出す」という考え方に基づくもので、企業は、ユーザーに価値を与えているとする従来の捉え方から、ユーザーがその製品やサービスを使用することで初めて価値が生まれると考えるべきだ、と二人は主張したのです。
製品やサービスを利用して自分のやりたいことを達成する、これが製品やサービスの本来の目的であるはずです。さらに、それらを使うことで、それまでできなかったことができるようになったり、やりやすくなったりすれば、私たちは嬉しいし、もっとその製品やサービスを使いたくなるはずです。
ユーザーによい経験をさせることにこそ価値がある。言われてみれば当たり前のことですが、コモデティ化を脱却しようとする動きをきっかけとして、ユーザーの嬉しい体験をつくり出すための方法論であるUXデザインは生まれ育っていったのです。
UXデザインの基本フレーム
UXデザインは、ユーザーが嬉しいと感じる体験をするように製品やサービスを企画しデザインする取り組みです。このUXデザインを取り巻く要素とその関係性を簡略化して表した下の図にあるように、UXデザインの主な対象には「ユーザー」「製品・サービス」の二つがあります。それぞれに向けたUXデザインからの三つのアウトプットについて見ていくことにします。
実現する体験価値の設定
ユーザー体験に向けてUXデザインは「実現する体験価値の設定」をアウトプットします。「体験価値」とは、体験を通じて得られる結果や効果によって見出される価値のことで、ユーザーにとって嬉しさの基準となります。この体験価値を設定し、その後それを目標として様々なデザインが進められていくことになります。
新しい製品やサービスを開発するとき、それらによってユーザーができるようになること、つまりどんな機能を製品やサービスに持たすのかを考えるのは当然ですが、実はユーザーは機能だけを求めているのではありません。使用時に得られる体験価値こそがユーザーにとっては大切。機能に合わせてユーザーの行動を考えるのではなく、ユーザーが嬉しいと感じる原理を最初に設定しようとするところにUXデザインの最大のポイントがあるのです。
理想のUXと利用文脈の想定
「利用文脈」とは、ユーザーが製品やサービスを使う状況やその背景、あるいは使用する前後で起こる様々な出来事のつながりを指す言葉です。どんな状況で、どんな背景があって、どんな脈絡で、その製品やサービスを使うのかがわからなければユーザーを理解したことにはならないため、新しい体験を提案するとき、利用文脈は重要な鍵を握っていると言えるでしょう。
この利用文脈の中には、ユーザーと製品やサービスの関係性だけでなく、周囲の人との関わりや使用する空間などの状況も含まれますし、ユーザー自身の過去の体験や利用前後の脈絡などの時間的経緯も併せて捉えておかなければなりません。複雑で多様な利用文脈をどのように読み解き、デザインにつなげていくかがUXデザインをしていく上では重要です。そして、一つ目に挙げた「体験価値」とこの「利用文脈」が揃った段階で、初めて製品やサービスのコンセプトを確定することができるのです。
理想のUXを実現する製品・サービスの制定
体験価値と利用文脈が設定された後に、製品やサービスの仕様を詰めていくことになります。ユーザーが嬉しいと感じる体験をデザインするためには「ユーザビリティ」が欠かせません。ユーザビリティは、製品やサービスの機能をユーザーが発揮させる際にそれがどのくらい容易に行えるのかを示す指標です。
ISOの規格で定義されているユーザビリティの内訳を見ると、適切度認識性、習得性、運用操作性、ユーザーエラー防止性、ユーザーインターフェース快美性、アクシティビリティの6つが挙げられています。この中で特徴的なのはユーザーインターフェース快美性でしょう。これはユーザーインターフェースが利用者にとって楽しく、満足いく対話を可能にする度合いのことで、「楽しさ」が製品やサービスづくりの指標に含まれている点に注目しなければなりません。
おわりに
UXデザインは、単にユーザーの要求を満たす製品やサービスを作って提供するのではなく、ユーザーと製品やサービスとの長く良好な関係を生み出すことに主眼を置いて開発を進めていきます。従来型のモノづくりの発想とは意識を変えて取り組む必要があるのです。
これまでは、製品やサービスの価値は企業側にあり、それがユーザーに届けられると私たちは考えてきました。しかしUXの発想では、価値はユーザーが製品やサービスを利用した経験によって生み出されるもので、企業がすべてを与えるものではないと考えます。新たな価値を付ける「付加価値」から、ユーザーの「体験価値」を提案することへと視点をシフトすることを求めているのです。
自動車のことを考えてみましょう。かつては性能や見栄えがよい車を所有すること自体に価値を感じる人が大勢いましたが、今求められているのは、車がユーザーにもたらす新しい体験。まさに「モノより思い出」なのです。もはや機能だけを売りにする時代は去り、ユーザーの体験価値こそが求められる時代が始まっているのです。
多様なユーザーの真の欲求に真摯に向き合うことを通して解決策を導き出していくUXデザイン。その意味でUXデザインは、もはや経営課題であると言っていいのかもしれません。経営学者のピーター・ドラッカーは「企業の目的は顧客の創造である」と述べています。顧客が本質的に求める体験を創り出すことが企業の目的であるのなら、UXデザインは一時的な流行ではなくて、ビジネスの本質だと言ってもよさそうです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回お会いする日までごきげんよう。さようなら!
著者プロフィール
―鯨井康志(くじらい・やすし)
オフィスにかかわるすべての人を幸せにするために、はたらく環境のあり方はいかにあるべきかを研究し、それを構築するための方法論やツールを開発する業務に従事。オフィスというきわめて学際的な対象を扱うために、常に広範囲な知見を積極的に獲得するよう30年以上努めている。主な著書は『オフィス事典』、『オフィス環境プランニング総覧』、『経営革新とオフィス環境』、『オフィス進化論』など。
2020年3月19日更新
テキスト:鯨井 康志
イラスト:
(メインビジュアル)Saigetsu
(文中図版)KAORI
参考文献:「UXデザインの教科書」