400年超企業に学ぶサステナブル経営の難題 ― 柳屋本店
この記事は、ビジネス誌「WORK MILL with Forbes JAPAN ISSUE07 EDOlogy Thinking 江戸×令和の『持続可能な働き方』」(2022/06)からの転載です。
江戸時代初期に創業した化粧品会社の柳屋本店。激動の時代を生き抜いた秘密に迫る。
「柳屋ポマード」「柳屋ヘアクリーム」などで知られる化粧品会社の柳屋本店は、江戸時代の最初期である1615年に現在の東京・日本橋で創業した。しかし、今に至るまでの400年以上もの年月は、決して順風満帆ではなかった。数多くあった経営危機をはねのけて生き残ってきた、そのサステナビリティの源となったものは、いったい何なのだろうか?
その答えのひとつが、時代や流行の波を乗りこなす、したたかな経営方針だ。柳屋本店の主力商品の変遷からも、それが垣間見える。
柳屋本店の創業者は、明出身の漢方医・呂一官。呂は徳川家康の「お抱え」ともいえる漢方医だったが、1590年に家康が江戸に入府した際に創業地である東京・日本橋に土地を拝領したことを機に、拠点を江戸に移す。日本橋で呂たちはまず、その技術を生かして紅や白粉といった女性用化粧品の製造を始めた。したたかだったのは、まず江戸城の大奥に売り込みをかけた点だ。江戸幕府御用達の商品になればおのずと評判となり、江戸の町人にも広がっていくと考えたのだろう。そのもくろみは当たり、事業の基盤を築いていった。
江戸時代後期の1800年代に販売された、髷(まげ)を結うための鬢付油(びんづけあぶら)「柳清香(りゅうせいこう)」も、町人を中心に大ヒットした。現在に続くヘアオイル商品の元祖だ。この頃になると、柳屋本店の商品は江戸・日本橋土産の定番となっていった。その後、明治に時代が変わり、断髪令によって男性が髷を結わなくなると一番の経営危機ともされる時代が訪れる。しかし、逆境に強いのが柳屋本店の伝統。洋装に合わせた男性用整髪料を開発する。それがヒマシ油に木蝋(もくろう)を溶かし込んだ「柳屋ポマード」だった。これをきっかけに息を吹き返す。
だがこの後、またもや時代に翻弄される。1923年の関東大震災では、東京・日本橋の店舗が焼失。29年には世界恐慌によって空前の大不況に。さらには戦争にも突入していくことになり、経営状況は悪化。終戦直前の45年春には、空襲で東京・日本橋の店舗や早稲田にあった工場などが焼失してしまう。
しかし、それでもなお柳屋本店は生き残る。終戦直後から「柳屋ポマード」の生産を再開すると、リーゼントブームの影響で需要が拡大。50年代には、現在にも続くヒット商品となる「柳屋ヘアトニック」「柳屋ヘアクリーム」を次々と投入。その後はファッションの流行に合わせノンオイルの整髪料の開発にも乗り出すとともに、伝統のヘアオイル関連の商品開発も続け、2001年に発売した「柳屋 Jウルトラハードジェル」や08年発売の「柳屋あんず油」といった今の会社を支える商品を生み出している。
時代時代のニーズに合わせた商品を投入することで、江戸時代からの歴史をつないできた。創業400年超を数える企業ではあるものの、伝統にいい意味で縛られることなく、自由な発想で商品を開発してきた。それこそ、したたかさの源泉となる。
その半面、変わらないこともある。それは、モノづくりに対する姿勢だ。継承されてきたヘアオイルの技術を生かしながら、いつの時代も信用と信頼を損なわないよう、まじめに商品開発を行ってきた。社会が豊かになっても、華美なコスメティックブランドに転換せず、創業時から続く日用化粧品、頭髪用製品を軸に据え続けた。柳屋本店の実直な商品パッケージが、その表れだろう。主力商品は時代によって変わっても、創業当初から市井に生きる町人を相手に商いを営んできたDNAが息づいている。
主力商品を柔軟に入れ替えることで時代の荒波を400年余りにわたって乗りこなしてきたしたたかさと、時が変わっても変わらずに継承されてきたモノづくりへの姿勢。サステナビリティを実現させる方法は、“変わらない仕組みづくり”だけではない。
ー柳屋本店
1615年、東京・日本橋で創業した企業。ヘアオイルなどの整髪料を中心に扱う化粧品メーカーで、社名の由来は柳のごとく常に頭を低くし、困難に挫折することなく商売繁盛への祈りを込めたもの。
2022年5月取材
テキスト:仁井慎治(エイトワークス)