ブランドの人格をインストールして、後ろ向きな自分を変えた ー オン・ジャパン 駒田博紀
NIKEやアディダスなど有名ブランドがひしめき合うスニーカー市場で、独自のポジションを確立しているスイス生まれのOn。オン・ジャパン代表の駒田氏は、もともと走ることが好きではなかったそう。さらに「Onに出会うまでの自分は本当に暗い人間だった」と語る。駒田氏を変えたきっかけは、Onというブランドの人格をインストールしたことだった。人々を惹きつける、Onの価値観とは?
オン・ジャパン独自のコミュニティづくりとは?
駒田さんのSNSアカウントを見ると、オン・ジャパンは頻繁にランニングイベントを行い、いつも盛況です。イベントはどれくらいの頻度で行っているのでしょうか?
駒田:月に1度、ウェスティンホテル東京とコミュニティランのイベント、2ヶ月に1度くらいのペースでウェスティンホテル横浜と同様のイベント、3ヶ月に1度くらいのペースで、京都でトレランイベントを開催しています。他にも各地のOn取扱店舗と共同でコミュニティランのイベントをやっています。また、最近では北海道の「エスコンフィールド」でも定期的にイベントを開催しています。これらはオン・ジャパンのコミュニティマーケティングとしての活動です。僕個人でも活動していて、横浜ビールランニングクラブの活動に顔を出したり、個人的なコミュニティイベントを思いつきでやったりしています(笑)
ウェスティンホテルと取り組みを始めるときは、「ただのサプライヤーとしてではなく、パートナーとして一緒にイベントをやりたい」とお伝えしました。シューズを貸し出して、ホテル内のジムで試し履きしてもらう取り組みはよく聞きますが、僕たちは一歩踏み込んでプログラムを考え、一緒にコミュニティを盛り上げたかったんです。だから、イベントをやるなら必ず一緒に走りたいと考えていました。
横浜ビールさんとは、どういったきっかけで知り合ったんですか?
駒田:横浜には走る場所、飲食店、クラフトビールのお店がたくさんあります。走った後に飲むことが僕の趣味の一つなんですけど、ある日、横浜ビールのレストランでビールを飲んでいるところをインスタに投稿したんですね。
数ヶ月後に横浜ビールが主催するイベントに行ったら、マーケティングの責任者の方に話しかけられたんです。「インスタに投稿してくださった方ですよね?一発でわかりました」と。それで仲良くなって「うちの会社にランニングクラブがあるから、今度ゲストで来てくれませんか」とお誘いいただきました。
そうやってイベントに参加してたら、横浜ビールランニングクラブのメンバーの足元がだんだんOnになっていくんですよ。醸造長や、水仕事をする人はウォータープルーフのシューズ、ホールの人たちは歩きやすいシューズで仕事してくれています。
僕がお店に行くたびにすごいデカイ声で「駒田さんいらっしゃいました!」って歓迎してくれるので、「ありがとう、ありがとう」って、なぜか握手してから飲むとか。そういうことを繰り返しているうちに、横浜ビールのセールスチーム、マーケティングチーム、レストランのチームに講演会をすることになりました(笑)
どんな話をするんですか?
駒田:その時は「お客様と向き合うことについて」とお題をいただきました。「外部コンサルにやってもらったことあるけど、知らない人の話は入ってこない。駒田さんの話だったら聞きたいメンバーがいるから、やってもらえないか」と、有難いことに言っていただいています。
他社のランニングイベントに参加して、Onのファンを作るだけではなく、講演にまで広がったと。
駒田:もともとOnにはOniversity(On大学)という店舗向けの教育プログラムがあったんです。Onの歴史や商品の特徴、テクノロジー、売り方などを教えるプログラムなんですけど、横浜ビールさんの他にも「話を聞きたい」と言ってくださる熱心なエンドユーザーの方々がいて。
Oniversityを受けていただくと、参加者の方に「うちの会社でもやってくれませんか」と言われるんです。テーマは「Onの考えるコミュニティマーケティングとは」とか「Onの大事にしている価値観、生き方」とか。ある会社には「チャレンジ精神について話してほしい」とリクエストをいただき、別の会社では「成功と失敗について」お話ししました。Onだったらどう考えるかをお話しして、時には参加者の方々と議論を行います。
単に商品だけではなく、価値観に魅力を感じてもらっているということですね。コミュニティ作りやイベントを企画する際、意識されていることはありますか?
駒田:コミュニティ作りをイメージした時に大体思い浮かぶのはエンドユーザーではないでしょうか?でも、僕の思うコミュニティには、取扱店も、メディアも、エンドユーザーも全て含まれています。Onの楽しそうな雰囲気や価値観に少しでも共感してくれる人は、全部ひっくるめて「OnFriends」ってくくりにしたんですよ。
例えば『モンスターチェイス』と題した、鬼ごっこのようなイベント。僕が鬼になってイベント参加者の方々に位置情報を公開し、逃げ回るんです。
元々は原宿のフラッグショップ『On Tokyo』で新商品発売イベントとして行ったことが始まりで、その時はお客さんが約30人、メディアからも10名ほどの方が参加してくれました。
メディアの方々もランニングイベントに参加するのは珍しいですね。
駒田:エンドユーザーのイベントにメディアが参加してもいいし、メディアイベントにエンドユーザーが参加してもいいんじゃないかと考えています。みんなまぜこぜにすることをすごく意識してきました。
コミュニティビルディングだけではなく、マーケティング活動においても「他と何か違うことをやる」っていうのはいつもすごく意識していますね。Onの本社ではこれをBe Different(違う存在であろう)と表現しています。
この言葉は、オン・ジャパン立ち上げの頃からスイス本社の創業者たちにずっと言われてきました。Onのシューズは、見た目が普通のシューズとちょっと違うじゃないですか。Differentですよね。「シューズとかアパレルのデザインだけじゃなくて、企業文化、社員の雰囲気、全てがDifferentであろう」と、最初に創業者から言われたんです。
「Onの人格」をインストールして、自分を変えた
Be Differentと、言い切れるのはすごいですね。
駒田:日本人はdifferentでいるよりも他となるべく同じで平均化したい気持ちが強いですよね。だから最初はチャレンジでした。また、僕自身、元々は今のようではなくて後ろ向きな性格だったんです。前職の僕を知っている人にある時、「駒田さん、昔はなるべく気配を消して、人と触れ合わないようにしていましたよね」と言われて。確かにそうだったんですよ。
どうしてそんなふうに大きく変わることができたんですか?
駒田:個人的な話になるんですけど、30代前半に1回離婚してまして。「この性格だと、人とあまりうまくいかないのかな」と感じていたんです。「べき」が口癖で、「こうあるべき」「こうする方が正しい」と、会社の同僚にも当時の妻にもよく言っていました。でも、そんな風にしていたら、自分が何をしたいのか、本当は何を求めているのかがわからなくなってしまったんです。結局人生はうまくいかず。その頃、Onと出会いました。
当時の僕には、Onが持つ価値観は全くありませんでした。でも、Onのブランドを背負って、日本で一人で広めないといけなかった。自分の行動が全て、Onの行動だと思われるんです。だから、最初は嘘だけど、楽しそうに走ったり、楽しそうに人と触れ合いました。ちなみに、僕は元々走るのが大嫌いだったんです(笑)
最初は嘘だったんですけど、やっているうちに楽しくなってきました。プライベートも仕事も隔てなく自分を曝け出して人と触れ合い、トライアスロンやフルマラソンにも出場しました。そういうのって、やらされてできることじゃないですよね。てことは多分、僕はこの人格が好きなんだろうと思うようになったんです。それ以来ますます、仕事とプライベートの性格を分けないようにしました。いつもこのまま。お店の人と話す時も、メディアの人と話す時も、イベントのときもいつも同じように振る舞うようにしてますね。それを続けてたら「ずいぶん駒田さん10年前と性格変わりましたねぇ」って、当時の僕を知っている友達からしみじみと言われたんですよ。
Onと出会う前は性格が違うっていうのは、意外です。
駒田:違ったと思いますよ。多分。一部、今の自分の根っこみたいなものはあったかもしれないですけどね。
オン・ジャパンを立ち上げる前にOnの創業者たちにプレゼンしたんですよ。ビジネス的なことも説明しましたが「Onで僕の人生は変わった。Onに感謝していて、きっと同じように感じてくれる人が日本にたくさんいると思う。僕と同じように、Onで人生がポジティブに変わったっていう人をもっとたくさん見たい。だから日本にOnがあった方がいいんだ」と。そう言った時が、彼らも一番嬉しそうでした。
スポーツには少なからずそういう側面がありますよね。スポーツをやることで前向きになったり、人にちょっと優しくなれたり。スポーツと人との間に立っているのが多分、スポーツブランドなのかもしれませんね。人の人生は、物だけではきっと変えられない。でも、そこに込めた思いで人は変わる。だから、オン・ジャパンの人間は、一生懸命思いを込めているつもりです。「スポーツは楽しいよ」とか、「新しいチャレンジは苦しいけど、人生は豊かになるよ」とか。そしてそれを、言葉だけではなく、生き方で見せているつもりです。
自分をさらけ出すことで、楽になった
駒田さんは、Onに出会って新しい性格になったとおっしゃっていましたが、「元々、今の自分の根っこもあったかもしれない」ともおっしゃっていました。逆に、暗くなったきっかけはありますか?
駒田:いくつかありますね。僕は喘息持ちだったので、学校の体育の授業に出れなかったんです。小学校の時って、足が速い子、運動のできる子がモテるじゃないですか。僕はどっちもできない。それって、強烈な挫折なんです。
中学に入って、町道場で空手を始めて少しずつ強くなりましたけど、部活はできなかった。自信を持てたのは勉強だけだったんですよ。勉強はそれなりにできたんです。
高校での成績は一番に近かったので、当然のように勉強で身を立てていくと思っていました。当時、文系で一番の資格は司法試験だったんですね。なので司法試験の受験を志して、割と順調だったんです。
でも、当時の司法試験は合格率3%未満と狭き門で、10年・20年勉強を続けても受からない人がたくさんいました。最初は自信があったんです。自分が受からなかったから、誰が受かるんだ、くらいに思っていました。でも、2年目も受からなかった。予備校でも、自信満々だった人の心が折れて、だんだん精神を病んでいくんです。それで怖くなってしまって。
25歳になった時に「これはやばい。早く就職しなきゃ」と、小さな会社に就職しました。その時に、めちゃくちゃバカにされたんですよ。メールの書き方ひとつわからないから。「これだから勉強だけしてきたやつは使えないんだ」と言われました。
そういう経験を重ねると、だんだん引っ込み思案になるんです。表に出ず、なるべく人から隠れたい。自分の弱いところを見ないでほしい。走れない自分も、勉強だけしてうまくいかなかった自分も、恥ずかしいから見ないでほしい。
挙げ句の果てには結婚も失敗して。僕の人生は、ずーっと失敗続きで、そんな自分の情けないところを見られたくないと思っていました。
でも、そういうことを一回全部オープンにしたら、不思議と誰も「情けない」とか「恥ずかしい」と言わなかったんですよ。「そうだったんですね」と。自分が絶対見られたくないと思ったことは、そんなに恥ずかしいことじゃないしオープンにすればするほど楽だと実感したんです。
今は「自分は大して走れない」とか、「離婚しました」と普通に言えるし、恥ずかしいと思わなくなりました。それまではちょっとでも自分の知られたくないことをつつかれたら、ブチギレて相手を理詰めで責めていたんです。そしたらどんどん人が離れていきました。
勤めていた会社でOnのマーケティング責任者になったことがOnとの出会いで、撤退を会社が決めたことがきっかけで独立したと聞きました。自分をオープンにしたら楽だと思ったタイミングは、前職でOnのマーケティングを始めた時でしょうか?
駒田:けっこう被ってますね。Onの仕事を始めた時にまずやろうと思ったのが、全国のマラソン大会、トライアスロン大会にブース出展をして、レースの日に僕も走ってお客さんと交流することだったんです。うまく行っても失敗しても、その結果を全てSNSで発信することを大事にしていました。
そうすると、オープンにならざるを得ないんですよ。むしろうまくいってない方が多かったんですけど、失敗を書いても「ナイスチャレンジです!」「次、次!」と、励ましてくれる。
絶対に知られたくないとカッチカチに心を閉ざしていると、人は殻を破ろうと色々突くんですよ。最初からオープンだと、「うまくいかなくても大丈夫ですよ」「チャレンジするのが大事ですよ」と、サポートしてくれるんです。これね、試してみたらほんと面白くて。オープンにすればするほど人は優しくなるんですよ。そういうふうにしていくと徐々に楽になって、「喘息だったこと、司法浪人だったこと、使えない駒田と言われたこと…今まで、俺はなんであんなに隠していたんだろう」と思うようになって。
~後編に続く~