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合うかどうかはやってみないとわからない 元力士の上河啓介さんがセカンドキャリアで介護施設経営者を選んだワケ

「自分に合った仕事ってなんだろう」
「自分らしく働きたい気持ちはあるのに、どう自分の良さを活かせばいいのか分からない」

就職・転職活動中、それどころか会社に所属しているときですら、そんな疑問が頭に浮かんでくることがありませんか?

上河啓介さんは力士として活躍した後、33歳で角界を引退。セカンドキャリアを考える際、力士という経験を生かす方法が分からず、「これから一体どうしたらいいんだろう」と路頭に迷ったそう。

そんな上河さんは現在、東京都墨田区で介護施設「デイサービス花咲」をはじめ、2カ所のデイサービスを運営する経営者として活躍中。元力士のセカンドキャリア支援もしています。

上河さんは、なぜ介護の仕事を第二の人生に選んだのでしょうか。角界と福祉。一見するとまったく異なる世界を見てきた上河さんに、自分の強みを生かす方法について伺いました。

上河啓介(かみかわ・けいすけ)
1977年生まれ、北海道根室市出身。力士時代は「若天狼(わかてんろう)」という名前で活躍し、2011年に引退。引退後は東京都墨田区に介護施設「デイサービス花咲」を立ち上げ、現在は2店舗目「デイサービス花咲なりひら」も運営中。同時に、力士のセカンドキャリアを支援する複数の事業も行っている。

力士を引退後、未経験のままデイサービスを開業

すでに引退したとは言え、上河さんが目の前に座るとすごい迫力ですね……!

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上河

現役時代と比べると、食事量も減ったので体重は10〜15kgほど落ちたんですよ。

だけど、相撲部屋の多い両国を歩いていると「力士さんだ!」ってすぐに気づかれますね(笑)。

この地域にとって、いかにお相撲が身近なのか、よく伝わってきますね。

最初に、上河さんが力士になったきっかけを教えていただけますか?

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上河

私は北海道出身なのですが、父親の友人に元力士の方がいて、たまたま実家に遊びに来てくれたんです。その時、背の高い僕を見て「相撲をやってみないか?」と誘ってくれて。

それまで、相撲はたまにテレビで観る程度。でも、「せっかくならやってみよう!」と思い、中学卒業と同時に東京都墨田区にある間垣部屋(まがきべや)に入門し、1993年3月に初土俵を踏みました。

現役時代の上河さん

現役時代から引退後のキャリアについては考えていたのでしょうか?

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上河

毎日ひたすら稽古をしていたので、考える暇はありませんでした。

高校や大学に通っていれば、卒業前には進路を考える節目があります。でも、力士はただ「横綱になりたい」という気持ちで過ごしているので、普段は引退後について考えるきっかけがないんですよ。

引退後は、どのような進路を選ぶ方が多いのでしょうか?

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上河

力士のセカンドキャリアとして有名なのが、自身の相撲部屋を持つ「親方」です。若手力士の指導にあたる仕事ですね。

だけど、親方と名乗るためにはいくつもの条件があり、年に1〜2人だけが選ばれる非常に狭き門なんです。

親方以外だと、繋がりのある飲食店や接骨院、警備員などの仕事に就くことが多いですね。私は「飲食店は元力士がたくさんいるので、ベタだな」と思い、選択肢から外しました(笑)。

そんな上河さんは、どうしてセカンドキャリアに介護職を選んだのか気になります。

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上河

15〜33歳まで相撲だけをしてきました。だから、現役を引退するときに、「これから一体どうしたらいいんだろう?」って路頭に迷ったんです。それで、とりあえず高卒認定を取りました。

上河

ちょうどその頃、デイサービスで働いている小学校の同級生から話を聞く機会があって。

「介護職なら自分の力士時代の経験を活かせるかもしれない!」と感じて、デイサービス勤務未経験のまま、2013年に一店舗目である「デイサービス花咲」を立ち上げました。

未経験からいきなり会社を立ち上げたんですか!

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上河

はい。両親は自営業で、その姿を見ていましたが、自分自身は未経験です。

ただ、一度誰かに雇われることに慣れてしまうと会社員体質になって抜け出せないと思ったので、どこにも勤めたくなかったんですよ。

それに、分からないことって準備できませんから。なので、介護も経営も「やっていくうちに学ぶしかない」と思い、すぐに会社を作りました。

とはいえ、全く経験のない異業種への転職に不安はなかったのでしょうか?

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上河

デイサービスという業態は全国各地にすでに存在していて、たくさんの施設が運営されています。ですから、あまり不安はありませんでした。

もちろん最初から経営がうまくいくはずもなく、利用者さんがなかなか集まらなかったり、赤字になったりとさまざまな危機に見舞われましたよ。

だけど、そんな時は、厳しい修行に耐えてきた力士時代の気持ちを思い出して、なんとか乗り切ることができました。

デイサービス花咲の一角には、力士時代のころに使っていた道具が置かれている。

力士時代に培った「気遣い」を介護職でも発揮

角界と福祉。一見異なる世界に思えるのですが、介護の現場で力士時代の経験が役立つことはありましたか?

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上河

「気遣い」の部分ですね。力士は付け人(※1)を経験したり、住み込みの共同生活を送ったりするので親方や先輩への気遣いが当たり前なんです。

(※1)……関取や親方につき、本場所や稽古場、日常生活においても身の回りのお世話をする幕下以下の力士のこと。これらのやりとりを通して、相撲界の礼儀やしきたりを学ぶ。

上河

介護の現場では、「お茶が減っているな」や「この利用者さん、体調が悪そうだな?」といった些細なことに敏感に気づくことが大切で。

アクションを取り続ければ、利用者さんは「自分のことを見ていてくれる」と感じて、心を開いてくれるようになります。

施設の定員はそれぞれ10名。利用者さんの多くは近隣にお住まいだそう。

相撲部屋で洗濯や料理を担当することもあるので、家事に慣れている方も多いですよね。

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上河

そうですね。デイサービスの食事でちゃんこ鍋を作った時は、利用者さんからも好評です。

それに、「デイサービス花咲」がある墨田区は国技館(※2)が近い。地域柄もあってか、相撲好きな利用者さんも多く、共通の話題には困らないんです。

(※2)……東京都墨田区にある大相撲の興行のための施設。大相撲の本場所のうち年に3回の試合が国技館で行われる。館内には相撲の資料を収蔵した「相撲博物館」もある。

上河

ただ、力士だからといって全員が介護職に向いているわけではないんですよね。

どうしてでしょう?

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上河

やはり、介護職にとっては「ちゃんと動ける身体」であることが大切なんです。力士の引退理由の一つは怪我。その影響で、年齢が若くても膝が曲がらないなんてこともあって……。

一方、十分に動ける体の状態があり、新しい知識をどんどん吸収できる人なら向いていると思います。現在、デイサービス花咲では4名の元力士が働いていますが、みんなうまくやっていますよ。

上河さんが、介護の仕事で「一番楽しい」と感じるのはどんな時ですか?

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上河

最初に来所した時は少し元気のなかった利用者さんが、介護を通じて日に日に元気になっていく姿を見た時です。

「この仕事をやっててよかった!」と思いますし、自分自身も元気が出るんですよ。

「自分がどの業界に合うのか」はやってみないと分からない

上河さんは現在、引退後の力士を支援する社団法人「力士セカンドキャリア推進協会」の活動もしていますよね。

こちらはどういった経緯で始めたのでしょうか?

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上河

かねてから力士のセカンドキャリアは問題になっていて、実際に後輩から悩みを聞く機会も多かったんです。

角界は特別な世界です。そこしか知らずに生きてきた力士は、一般的な転職エージェントに相談しづらい。それに、エージェントの方も「どこに紹介したらいいんだろう?」と戸惑うと思うんですよね。

確かに。まずどういう世界なのか、外からは想像しにくいですよね。

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上河

一方、力士の平均引退年齢は20代前半。まだまだ若く、キャリアの再スタートができる年齢です。

そんな未来ある人たちに、同じ境遇の元力士がアドバイスしたら心強いだろうと思い、引退後の仕事を紹介できる協会を立ち上げました。

引退後の仕事探しでは、どんなお悩みがありますか?

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上河

「自分は何をしたいか分からない」など、いろいろですね。そんな人にはいくつかの仕事を提案しますが、最終的な決定は本人にお任せしています。

結局、「自分がどの業界に合うのか」は、やってみないと分からない。だから、仕事をやる前から「自分じゃ無理だ」って決めつけてしまうのはもったいない。

「仕事の合う・合わない」なんてあってないようなものだと思うんです。

読者の中には、転職をしたいけど勇気なく踏み出せない人も多いと思います。そういう場合は、どんなアドバイスをしていますか?

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上河

飛び込めないまま考えていても、時間が経ってしまうだけ。とりあえず行動に移してみて、ダメならそれでいいんじゃないですかね。命がとられるわけでもないし。

私も起業の際には、「会社が潰れても死ぬわけじゃない」と自分に言い聞かせてました(笑)。

逆に、上河さんがやらなくて後悔したことってありますか?

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上河

相撲も介護も、全部やりたいことをやってきたので後悔はないですね。

ただ悩んでいても時間が経つばかりだし、10年後にはやりたいことが変わっている可能性だってある。そうすると、いま気になる仕事があるなら、絶対にやった方がいいと思います。

最後に質問させてください! 介護業界では、どの番付を目指したいですか?

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上河

介護業界でくくると大きすぎるんですけど(笑)、「墨田区のデイサービスなら花咲だよね!」と言われるくらいでしょうか。

墨田区の介護業界では、「横綱」を目指していきたいなと思っています。

2023年2月取材

取材・執筆=吉野舞
撮影=塩川雄也
編集=鬼頭佳代/ノオト