人々を解放した“風呂”というメディア ― “AMAMI”・草彅洋平
この記事は、ビジネス誌「WORK MILL with Forbes JAPAN ISSUE07 EDOlogy Thinking 江戸×令和の『持続可能な働き方』」(2022/06)からの転載です。
昨今のサウナブームに伴って注目を集める「銭湯」だが、第一次ブームは江戸時代に巻き起こっていた。
いま世の中は空前のサウナブームだ。どこの銭湯も混み合っているが、そもそも我々日本人の生活にかかせないカルチャー「銭湯」が生まれたのは鎌倉時代といわれている。僧侶たちが身を清めるための寺社にある浴堂を一般開放し、入浴料を取ったことがきっかけだ。この銭湯というビジネスが江戸時代になると爆発的に広がり、庶民文化として花開いていく。
始まりは天正19年(1591)に江戸に最初の銭湯ができたことだが、この風呂は蒸し風呂だった。いま「風呂に行く」というと、なみなみと浴槽に注がれた温かい湯に入る光景を想像するが、江戸時代以前は蒸気によって体を蒸らす蒸し風呂が普通である。ところがこれが江戸時代になると、われわれがよく知る、水を貯めた風呂に発展する。
文化として広がるには、大勢の賛同者(客)の存在が必要だ。銭湯ブームのきっかけはいくつかあるが、まず江戸は風が強いため、埃が激しく、毎日入浴する習慣が生まれたという説がある。2つ目に徳川家康が江戸入城後に埋めたてた土地が多いため、井戸が少なく、各家庭に水が少なかったからともいわれている。3つ目に火事の多い江戸で、火災の原因となるための内湯を町屋に設置することが御法度であったことが挙げられる。風呂に入るには行水をするか、銭湯に通うよりなかったので、自然と風呂屋に人々が集まったのだ。4つ目に歴史がある。古くから僧侶たちは入浴は病を退けて福を招来するものとして人々に推奨していた。長い年月をかけて、入浴はありがたいものとして、人々に刷り込まれていたのだ。
そしてこの銭湯に垢すりや髪すき、性的サービスまでも提供する女性、すなわち湯女が登場すると「湯女風呂」が江戸の一大ブームに発展する。いつの時代も爆発的なブームの導火線がエロスなのは変わらない。
銭湯は男女の差異なく、老人も子どもも誰もが平等に入れる場所だ。そして浴客たちの会話は風呂の湯気のように溢れた。1859年に初代駐日総領事に任命されたラザフォード・オールコックは「この偉大な入浴施設が世論の源泉だとすれば……他のすべての議会に欠けている男女両性の権利や平等を全面的に認めている点で推賞に値する」と書き残しているほどだ。
ドイツの考古学者シュリーマンは「どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」(『シュリーマン旅行記 清国・日本』)と世界一の清潔好きを日本人だと書き残した。江戸の庶民たちにとって、銭湯は身体を洗うだけでなく、厳しい身分制度から解放され、さまざまな人と交流する社交場でもあった。そして「どこで切つたはつたの、火事、芝居の噂を聞かうなら、銭湯に増す事なし」と『皇都午睡』に書かれているように、銭湯は新聞やテレビのような、人の集合体としてのメディアでもあったのだ。
人々は綺麗になるために、遊ぶために、情報収集のために銭湯を訪れた。コロナ禍の銭湯ですっかり定着した「黙浴」という貼り紙など、江戸の人々が見たら笑い噺にするだろう。
ー 草彅洋平(くさなぎ・ようへい)
サウナを勉強する文化系サウナーチーム「CULTURE SAUNA TEAM “AMAMI”」を結成。古今東西の文献を調べ上げた『日本サウナ史』を出版(第1回日本サウナ学会奨励賞・文化賞を受賞)。最近の作品は「プーチンとサウナ」(note)。
2022年5月取材