いま再考したい、日本的価値観とは?
2019年10月発刊の『WORK MILL with Forbes JAPAN ISSUE 05』では「ALTERNATIVE WAY-アジアの新・仕事道」と題して、東アジアの働き方や価値観をフォーカスしました。欧米の人々の心を掴む価値観や思想、美しさが日本にはあります。日本人的な価値観が強くしみ込んだ武道も、欧米で受け入れられ、とくにヨーロッパでは子供から大人まで多くの人が心身を鍛えるためにたしなんでいます。では、実際に日本的などのような価値観が海外の人々の心を掴み、彼らの生活に生かされているのでしょうか。本記事では、剣道歴20年、オランダ在住3年の著者がオランダでの剣道を通した活動から日本的価値観の魅力を紐解きます。
企業研修として取り入れられる剣道、その理由とは?
2019年末、オランダ・アムステルダムで現地の一般企業を対象に剣道ワークショップが開催されました。ワークショップを担当したのは、オランダ剣道ナショナルチームのキャプテンが代表をつとめる剣道道場「春心会」です。これが初めての研修ではなく、所属メンバーはオランダ大手銀行からも依頼を受けたことがあります。チームビルディング研修も兼ねており、剣道を通して社員同士の絆を深めつつ、仕事や実生活でも活きる経験をしてもらうことを目的としています。
1.「黙想」で自己の内面と向き合う
「黙想」という言葉をご存知でしょうか。剣道では、稽古が始まる前の精神統一のために行われます。背筋を伸ばし正座をして、へその前で右手の甲を下にして膝の上にそっと乗せ、その上に左手の甲を重ねます。軽く目を瞑り、呼吸を整えます。その日の目標や稽古の内容をイメージすることもありますし、無心になる人もいます。しんと静まり返った道場で、目を閉じて自分の心に集中するような時間です。形容しがたい澄んだ時間が流れます。
黙想が終わったら面をつけお互いに激しく打ち合う稽古をするのですが、始める前に一度心を鎮めることは稽古のパフォーマンスにも大きく影響します。「立禅」にも似た「立ち稽古」と呼ばれる稽古を10分から15分ほど行なう剣道部や剣道道場もあります。じっと動かず己と向き合う時間をつくることで、我慢をする力、心をコントロールする力を身につけることが目的です。最初はふらついてしまう学生も多いそうですが、回数を重ねるうちに姿勢も正され、立ち姿も美しくなっていきます。このような稽古から外国で剣道に励む人々からは「剣道を通して身についたこと」として、「忍耐力」「自己コントロール力」「集中力」などが多く挙がりました。近年では、瞑想やマインドフルネスが注目を集めていますが、日本の伝統的な武道や価値観の中には、このように静かに己と向き合う習慣がずっと根付いていました。
2.美意識を持って「場」を整える
自己と向き合い、コントロールする時間を確保する上で欠かせないのが適切な環境です。これは働くことでも剣道でも共通です。剣道では稽古の前には必ず雑巾・モップがけなど道場の清掃が行われます。これは、一緒に稽古をしてくれる「人」だけではなく、「場」にも敬意を払うためです。適切な環境を整えることで、集中力も高まります。
さらに、剣道では道具にも強いこだわりと美意識が持たれています。現代剣道では竹刀を使用しますが、もともと武士は刀を使っていました。日本刀は、職人によって研ぎ澄まされ、美術品としても評価されるほどです。熱心に収集するコレクターもいます。本来は命のやり取りをする武器ですが、そういったものにさえも私たち日本人は美意識を求めてきました。武道が英語でmartial artsと呼ばれるのも、このためです。戦闘技術が芸術にまで昇華したのは、世界的にも稀有な事例だと言われています。
ある30代の外国人剣士は「心がまっすぐであること」を大切にしているそうです。「心がまっすぐであれば、自分の剣もまっすぐでいられる」と語りました。道具、心、姿勢を美しく保つことは、心を強く持つことにも繋がります。日本に旅行をしたり、剣道や武道を経験した人々が口を揃えて言うことは、日本人の美意識や道徳性の高さです。「美しい」「素晴らしい」「魅せられた」とよく聞きます。進化・成長するためには、考えや価値観をアップデートしていく必要がありますが、こういった美徳や美意識は私たちが失ってはいけないユニークな個性だと感じずにいられません。
3.礼を重んじる心
剣道は、「礼に始まり礼に終わる」武道です。道場に入退場するときは必ず立礼、稽古の前後には座礼、相手と向かい合って打ち合う前後にも立礼をします。ヨーロッパは個を尊重する雰囲気が日本よりも強いと感じますが、相手に対する尊重を形で表すことが多いのは日本人の方だと思います。もっとも美しいとされる礼の形は細かく角度が決まっており、座り方もどちらの足から座るか決まっているほどです。これは所作事と呼ばれ、元々は効率性・合理性の追求から定められました。
ー研修でも「礼」を体験してもらいました
あまり知られていませんが、剣道では相手から一本を取ってガッツポーズをすると一本取り消しとなります。これは、相手に対する思い遣りを表したルールです。相手があってからこそできる競技なのに、過度に勝ったことを喜ぶのは非礼という考えに基づいています。日本人であれば感覚的に理解できることでも、文化も慣習も宗教も異なる場合は言葉で説明しなければ理解できないケースは少なくありません。そんななかヨーロッパで剣道を習う子供もいて、保護者からは「剣道を通して他者への振る舞いを学んでほしい」「人の道を教える武道に魅力を感じます」といった意見をよくききます。
「ガッツポーズをされたら、相手は悲しいのでは」とまで相手の気持ちに思いを巡らす想像力が、かつての日本人にはあったのでしょうか。ハラスメントが問題になる現代ではなかなか想像がつきません。しかし、全ての人が今一度立ち止まる心を持ち、自分の言動が相手を傷つけていないか、意地悪な気持ちで言葉を放ったり行動していないか、内省してみることも大切ではないでしょうか。
4.自分を奮い立たせる勇気
剣道の特徴の一つに「気合」があります。相手に打ち込む前に、私たちは大きな気合を出します。これは相手を威嚇する意味合いもありますが、自分を奮い立たせることにも役立ちます。高段者の先生に稽古をお願いしたり、自分よりも上手の相手と試合をするのはとても勇気がいることです。自分を奮い立たせ一人で立ち向かったという経験は、確実に自信につながります。ヨーロッパの人々は、日本人と比べるとよく人を褒めます。また、教育課程でも自己決定が尊重され、自己肯定感が高い人が多いように感じていました。しかし、驚いたことに「剣道を通して自信がついた」「子供が自分に自信を持てるようになったと思う」という意見も多いのです。
これには「自分を奮い立たせて何かを乗り越える」ことのほかに、冒頭でご紹介した「己と向き合う時間」や「他者への思い遣り」の影響も大きいでしょう。家族や信頼する人に自分を認めてもらうことも非常に重要ですが、一番大切なことは、自分が自分を信じられるかどうかです。毎日ではなくとも、たとえ数分だったとしても、自分の心を静かに保ち内面と向き合うことは非常に重要だと言えます。
5.謙虚さと規律
最後は、謙虚さについてです。以前、オランダ企業で働く人に「日本人の謙虚さや規律からは、学ぶことが多い」と言われたことがあります。剣道を学ぶ上で「discipline(規律)」を魅力に感じるという意見もよく聞きます。日本で働いていると、ルールやしがらみに息苦しさを感じることも多いですが、押し付けではなく、自発的に自分を律しようとする場合は異なります。
武道は特に上下関係が厳しいイメージがあるかもしれません。規律もしっかりしているぶん、上から意見を押し付けられるケースも散見します。しかし、本来は上から押し付けられる規律が良しとされていたかと言うと、必ずしもそうではありません。ある高名な八段の先生がおっしゃっていた言葉で印象的だったことがあります。それは、「人を段位で評価しようとすると大変な間違いが起きる」というものです。剣道には称号・段位制度があり、目指すものの一つでもあります。なかでも八段の合格率は毎年1%を切っており、日本一合格率が低いと言われています。
段位が低かったとしても、人間性が素晴らしい人はたくさんいらっしゃいます。そのことを忘れ、段位のみで人間を評価すると大きな間違いが起こると戒め「上になればなるほど頭を低くしなければならない」とおっしゃっていました。これは、働く上でも同じです。役職や年齢が上がるほど、人に物事を押し付けることなく、尊敬する心を忘れないという教訓になります。また、逆に年齢が若かったり経験が浅い場合は、目上の方への感謝の気持ちを忘れず謙虚に振る舞う心がけが大切です。
ここまで、以下の五つの項目から剣道の所作・稽古を通じて日本人的な価値観への考察を紹介してきました。
- 「黙想」で自己の内面と向き合う
- 美意識を持って「場」を整える
- 礼を重んじる
- 自分を奮い立たせる勇気
- 謙虚さと規律
自分の心との向き合い方、美意識と場の重要性、他者への思いやりが評価され、日本国内だけではなく海外でも受け入れ実践されています。剣道を始め、武道はヨーロッパで着実にその社会的地位を獲得しつつあると言えるでしょう。その理由は、単なる競技としての魅力だけではなく精神性の追及にあるようです。これまで紹介してきた内容は、私たち日本人にとっては真新しいものではなく、どこか慣れ親しんだ考え方です。自分たちの働き方や心との向き合い方について、新しいアイデアを取り入れていくことも大切ですが、普遍的に良しとされる価値観もあります。それらを忘れずに、残していくことも大切ではないでしょうか。
2020年5月12日更新
取材月:2019年12月
テキスト:佐藤まり子
写真:佐藤まり子
協力:De Japanner、春心会