わかりあえないことから、始めよう ― 変革期を迎えている組織に必要な“対話”の在り方
働き方改革がさまざまな場所で叫ばれるようになった今、多くの企業では小手先の対策ではなく「組織自体の在り方の見直し」が問われています。これから私たちは、皆が気持ちよく伸びやかに働ける環境を実現するために、企業社会の中でどのような組織づくりを目指していけばよいのでしょうか。組織論、経営戦略論の研究者である宇田川元一さんにお話を伺いました。
中編では、これからの時代に合わせて組織を再編していくために必要な“対話”とは、一体どのような行為なのか……具体的なエピソードを交えながら詳しくお伝えします。
モーセと神から学ぶ、“対話”の実用性
WORK MILL:ここまでのお話で、なぜ今になって社会的に「働き方改革」の必要性が叫ばれ始めたのか、なぜ「働き方改革」がなかなかうまく進まないのか……それらの背景をご説明いただきました。
先生はその上で「会社組織が今まで見えないふりをしてきた問題(≒多義性の認知の問題)と向き合うには、“対話”が不可欠だ」と指摘されましたが、それはどういう意味なのでしょうか。
宇田川先生:認知の限界を打ち破るために対話が必要―このことを具体的に例示してくれるお話が、実はユダヤ教・キリスト教の(旧約)聖書の中にあるんです。それは「出エジプト記」の、モーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出するエピソードなのですが。
―宇田川元一(うだがわ・もとかず) 埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授
1977年東京都生まれ。長崎大学経済学部准教授、西南学院大学商学部准教授を経て、2016年より現職。専門は経営戦略論、組織論。社会構成主義を思想基盤としたナラティヴ・アプローチの観点から、イノベーティブで協働的な組織のあり方とその実践について研究を行なっている。
WORK MILL:あの、海を割って道を拓いたお話で有名な?
宇田川:そうです。このモーセのエピソード、よく読むと実に企業組織や社会の変革のリーダーシップの物語のようで、私は結構好きなんです(笑)
簡単に解説すると―物語の舞台は、紀元前17~13世紀頃のエジプトです。ユダヤ民族は干ばつや飢饉のために故郷イスラエルを離れ、エジプトに大移動しました。移動してきた当時のエジプトの王はユダヤ人たちを快く受け入れましたが、代替わりして別の王になると、彼らを奴隷として扱うようになりました。
ユダヤ人たちは、もちろん奴隷をさせられていることに不満を持ちます。ただ、奴隷の生活は不自由ながらも、寝食に困ることはなかった。なので、文句はあれども事は荒立てず、大人しくエジプトで暮らしていました。
WORK MILL:彼らにも「満足化基準」が働いていたと……。
宇田川:そんな中、ある日モーセのもとに神(ヤハウェ)が現れて「迫害されているユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出し、約束の地カナンに連れていけ!」と命ぜられます。
WORK MILL:モーセはその命令に従って、次々と奇跡を起こしていくんですよね?
宇田川:いえ、実はそんなに素直に従ったわけでなくて、むしろ始めは「無理ムリ!」と断るんです(笑)。先ほど説明したように、ユダヤ人たちは現状の暮らしにそれなりに納得していることを、モーセは知っていた。
そこでユダヤ人たちに脱出しようなんてけしかけたら、当然エジプト人からは報復されるかも知れないし、ユダヤ人たちからも「余計なことをするな」と疎まれるかもしれない。「リスクしかないじゃないか、嫌だよ!」と神に言うんですよ、モーセは。
WORK MILL:すごく人間味がありますね(笑)
宇田川:そこから、モーセと神の“対話”が始まるんです。神はなんとかモーセに動いてほしいから、話をしながら一つずつ、モーセの懸念を解消しています。
モーセが「私は弁が立たないから、皆言うことを聞かないよ」と言ったら、神は「大丈夫だ、お前には相棒のアロンがいるだろ。アロンは口が上手いから、そのへんはアイツに任せればいい」と返す。
「いや、話し上手なだけじゃ皆を説得しきれない」とモーセが弱音を吐けば、神は“モーセの持つ杖が蛇に変身する”という奇跡を彼に授けて、「これを見せれば皆も信じるから!」と彼を諭す。「それでも無理だよ!」「じゃあ奇跡をもう1つ!」……みたいなやり取りが続いて、ようやくモーセは動き出すんですよ。
権力は、フォロワーが生み出している?
宇田川:この、モーセと神の“対話”の様子こそ、人が「認知限界」※ 1や「認知的不協和」※ 2を打ち破っていくためのプロセスなんです。モーセは嫌がりつつも、神とのやり取りの中で、今までの認知の枠の外側にあった問題と向き合います。
そして、モーセと神は対話の中で「その問題に立ち向かうためには、具体的に何が必要なのか」を導き出していく。それらを一つずつ準備して、モーセは最終的に恐怖を乗り越え、問題の解決に向かっていきました。
聖書の中の逸話なので、ここでは神の言葉として出てきますが、一般的なビジネスの文脈で考えるならば、モーセに臨んだ神の言葉は、自分の会社の大きな適応課題(変えようとすると痛みを伴う決まった答えの無い問題、後編で詳述)、モーセは自分の会社の大きな課題に気づいてしまった人(潜在的なリーダーシップ)という構図で考えると良いと思います。
WORK MILL:モーセのように動き出す人がいなければ、ユダヤ人はずっとエジプトで奴隷生活を続けていたのかもしれませんね。
宇田川:そうですね。人は皆、枠組みの外に出るのは怖いんです。「このままじゃダメだ」とはわかっていながらも、いざそれを口に出してしまったら、現状の安定が崩れてしまうかもしれない。
だから皆、問題の本質を明らかにするための“対話”を避けてしまう。自分からは動き出すのが怖いから、モーセみたいな「こっちへこい!」と言ってくれる先導者を待ち望んでいる……そういう人は、きっと現実にも少なくないでしょう。
WORK MILL:そのような状況にある企業は、少なくないように思えます。
宇田川:一方で「誰についていくか」という選択も、結局は主体性が求められる行為です。哲学者のミシェル・フーコーは「従う人間が権力を内在化している」と主張しました。権力は、それを支持するフォロワーがいなければ成立しない―つまり、フォロワーこそが権力を生み出しているのだ、と。
WORK MILL:「不満がありながらも何かに従う」ということは、その“何か”が影響力を持つのに加担してしまっている、とも言えるのですね。
宇田川:そう、従う人も共犯者なのです。ただ、フーコーは決してこの構造を悲観的に捉えていたわけではありません。彼は「私たち一人ひとりには、そういう力があるのだ」と強調しました。自分がモーセにならなくても、「何を信じて、誰についていくか」ということは、よりよい未来を切り拓くための大切な選択です。
※ 1:認知限界…一人の人間が認知できる範囲、処理できる情報の限界。
※ 2:認知的不協和…人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態のこと。または、その状態で抱える不快感。
※ 1、※ 2 について詳しくは前編を参照
今がつらければ、違う物語に目を向けてみよう
WORK MILL:先生は組織づくりにおける“対話”の重要性を強調されていますが、そこで用いている「ナラティヴ・アプローチ」とは、どのような研究なのでしょうか。
宇田川:私が実践しているナラティヴ・アプローチとは、社会構成主義の思想の実践とそれに関する研究です。社会構成主義とは言語が現実(我々が当たり前だと思うある種の常識的な考え)を生成していると考えます。そのため、「客観的な真理は存在しない」という認識論に立っています。言語が変われば現実は違って捉えられるからです。それゆえに、言語を改めていく実践である「対話」が社会を変える力があると考えています。「現実とは対話を通じて生成しうる」という考え方です。
その中で、ナラティヴ・アプローチが主眼に置くことは「対象者が気付かないうちに支配されている常識的な物語≒ドミナント・ストーリーから、対話を通じて新たな物語≒オルタナティヴ・ストーリーを生成していくことで、その人がよりよい人生を歩む手助けをしていくこと」なんです。
WORK MILL:ドミナント・ストーリーを、オルタナティヴ・ストーリーに?
宇田川:ちょっとわかりにくい言葉が続いたと思うので、具体的な例を出して説明しますね。
たとえば、親に虐待を受けた経験があって、人間不信になっている人がいるとします。なんとか人を信じたいのだけど、なかなかできなくて悩んでいる。この時、彼の中では「愛してくれるはずの親に虐待を受けたから、私はもう他人なんて信じることはできない」というストーリーができあがっていて、それがガチっとハマっているわけです。これが、その人にとっての支配的な物語――ドミナント・ストーリーです。
けれども彼にとって、重要なのは「虐待を受けた」という物語だけなのでしょうか。思い返せば、周りで優しくしてくれた人、困った時に助けてくれた人がいたかもしれません。つらかった物語に支配されていると、楽しかったこと、幸せなエピソードなどは、記憶の奥底に押しやられてしまうものです。何か今起きている問題には特定できる何らかの原因が存在し、それが現在の問題をもたらしている、という考え方それ自体も、ひとつの常識に支配された物事の理解の仕方です。
WORK MILL:なるほど。
宇田川:「虐待を受けた」というドミナント・ストーリーによって、「人間すべてが信じられない」と思い込んではいないか……もしそれが問題だと感じるならば、経験を掘り起こして、それに取って代わるような別の物語――オルタナティヴ・ストーリーを見い出していこう。
こういった思考の転換を“対話”によって促していくのが、ナラティヴ・アプローチのやることです。臨床心理の現場では「ナラティヴ・セラピー」と呼ばれています。
WORK MILL:“対話”には、そんな大きな力があるのですね。
宇田川:ただ、これは「今、皆が違う物語を見つけなければいけない」という話ではありません。現状がよければ、それでよし。何か困りごとがある状態からスタートするのが、ナラティヴ・アプローチの前提です。
なぜならば、多くの場合、問題とは、専門家のドミナント・ストーリーによって、外部から診断的に言語によって作り出されるからです。ナラティヴ・アプローチでは、対話を基礎としていますが、対話の反対語は診断であると言えます。診断自体も我々の経験を解釈するための一つの枠組みに過ぎないのだと言えるのです。
少し大げさな表現をすれば、「私たちは自分が生きている物語(つまり言語)を変えることで、違う人間に変わっていける」とも言えます。そういう力を、私たちは言語というデバイスを持っているのです。
親睦でもなければ、指導でもない―自分を改めるための“対話”を
WORK MILL:働く現場では、とりわけ上司と部下の意思疎通が足りていないことで、さまざまな問題が起きていると感じます。現場レベルで“対話”を試みる際に、私たちが気をつけなければならないことはありますか?
宇田川:まずは、“対話”を“親睦”と履き違えないこと。ワークショップで和やかに、模造紙なんかを囲んで皆でワイワイとやったりする……というのは“親睦”です。それはそれで重要ではありますが。
そうじゃなくて“対話”というのは、認知の枠の外にあるモヤモヤしているもの、不愉快に思うものの存在を受け入れ、そこに意味を見出す実践です。見たくない、見せたくないものも開示して現状の問題を確認し合う。そこで初めて、自分たちが一緒に目指せる、目指すべき新しい物語が見えてきます。
WORK MILL:目指すところが見えれば、そこに向かって具体的な課題を挙げ、目標も立てられると。
宇田川:間違ってはいけないのは、“対話”は決して「指導の場」ではありません。これは、上の立場の人間が無意識にやりがちです。“対話”は、相手を改めさせる場所ではない。自分が改められることを通して、相手と今までにない無二の関係を築いていく営みこそが、“対話”なのです。
WORK MILL:だからこそ、耳の痛くなるような話こそ、積極的に聞いていくべきなのですね。
宇田川:あともう一つ、“対話”をするにあたって心がけておくといいかな、と思うことがあります。それは、「話し合いによって、必ずしもわかり合えることばかりではない」ということです。自分が苦しくて「これ以上はムリ」だと思ったら、そんな自分も認めてあげてください。我慢をしすぎることは、自分に対して失礼なのです。
耳の痛くなるような話をし合って、落とし所が見つかったら素晴らしい。けれども、お互いの正しさがぶつかって、それができない場合だって当然あります。実際には「どちらかが一方的に間違っている」といったケースの方が珍しいでしょう。焦ってはいけないのです。
WORK MILL:「わかり合えなくても、それが当たり前」という心構えを持っていると、話し合いのスタンスも大きく変わってくる気がします。
宇田川:劇作家の平田オリザさんは著書『わかりあえないことから』で、「お互いが“わかりあえていないこと”に同意している状態が、対話にとって大事だ」と指摘しています。私たちは一人ひとりが、全然違う人間です。違うからこそ、わかり合える部分を探したり、わかり合えないままでも共存できる落とし所を見つけたりするために“対話”をするんです。
集団として目指す方向は共有しながらも、社員がそれぞれの違いを認め合った上で、その違いを尊重し、生かし合っていけるのが良い会社組織です。そういった状態を、“対話”によって目指していければよいのではないかなと、私は考えています。
中編はここまで。最後となる後編では、これからの組織に必要なリーダーシップの在り方や、一人ひとりが挑むべき課題、その挑戦を支えるためのコミュニティについてなど、さまざまな話題でさらに盛り上がります。
参考文献―話題に上がったトピックについてさらに詳しく知りたくなったら
- モーセのエピソードについて
(関根 正雄 訳,『旧約聖書 出エジプト記』岩波文庫) - 権力の構造について
ミシェル・フーコー(田村 俶 訳,『監獄の誕生』新潮社) - 「ナラティヴ・アプローチ」について
マイケル・ホワイト(小森 泰永 訳,『物語としての家族』金剛出版)
ケネス・J・ガーゲン(東村 知子 訳,『あなたへの社会構成主義』 ナカニシヤ出版) - “対話”のスタンスについて
平田オリザ(『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社)
2018年11月20日更新
取材月:2018年9月