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第5話「座りなさい」から「立ってなさい」へ

働く環境、働き方の調査・研究を30年以上続ける業界のレジェンド、鯨井による連載コラムです。働く場や働き方に関するテーマを毎月取り上げ、『「〇〇」から「××」へ』という移り変わりと未来予想の視点から読み解きます。

座らせたり立たせたり

「ばっかも~ん」の後、カツオを正座させて波平のお説教が始まります。磯野家で毎週のように繰り広げられるシーンです。親が子供に反省を促すときは、畳に正座が定番でしたよね。椅子での生活が主流になったので、子供を座らせてしつけをするシーンはすっかり影をひそめてしまったように思われます。

いいつけを守らない悪たれ坊主に「立ってなさい!」と教育的指導をする先生は今はもうほとんどいないのかもしれません。廊下に出されて水の入ったバケツを持って立たされるなんていう光景も、今となっては眼にすることはほとんどないですね。

「座りなさい」も「立ってなさい」も相手を戒めるときに使う言いまわしです。が、そんな訓戒の話をここでするつもりはありません。今回はデスクワークをするときの作業姿勢について話してみることにします。

ー鯨井康志(くじらい・やすし)
オフィスにかかわるすべての人を幸せにするために、はたらく環境のあり方はいかにあるべきかを研究し、それを構築するための方法論やツールを開発する業務に従事。オフィスというきわめて学際的な対象を扱うために、常に広範囲な知見を積極的に獲得するよう30年以上努めている。主な著書は『オフィス事典』、『オフィス環境プランニング総覧』、『経営革新とオフィス環境』、『オフィス進化論』など。

日本人が椅子に座ることを考えた日

黒船来航と時同じく嘉永6年(1853年)12月、日本との通商を求めるロシアの使節団が来航。そのときの様子を描いた『魯西亜使節應接図』を見ると面白い。ロシア側は持参した椅子に座っていて、対する日本側のお役人たちは畳を何枚も重ねた上に座って会議が行われているんです。交渉にあたった勘定奉行の懸念事項が開国するか否かの問題だったのは言うまでもないことですが、実は交渉の場での座り方(椅子にするか畳に座るか)も頭を悩ます問題だったのだそうです。座り方を通してお互いの文化を主張し合っているところに興味がそそられませんか。普段から慣れ親しんだ姿勢でないとじっくり考えられないし、ましてや重要な折衝なんて無理、ということだったのでしょうか。

その後開国して明治の代になると西洋文化がどっと流れ込んできて、日本人の生活文化や習慣は大きく変わります。事務所でも椅子に座って働くスタイルが当たり前になっていきます。椅子座の普及は、西洋文化への憧れみたいなものもあったのでしょうが、立ったり座ったりすることの多い事務所では、床にべったり座るより椅子に座って働くほうがずっと機能的だったからなのでしょう。

座り仕事は人類を「退化」させる

樹上の生活から、樹を降りて二足歩行し始めた我々の祖先。歩けるようになったことで環境に順応して生き残ることができました。進化の過程で何をもって「人」と呼ぶかは学者の間でも意見の分かれるところでしょうが、とにかく直立姿勢で早く遠くまで歩けるようになったことが人類の大きな特徴であることは間違いありません。

このときをもって人の身体を支える背骨は、四足歩行時代のアーチ型からS字型へとかたちを変えました。人類の背骨は立ったときに最も負担がかからないように進化しているのです。一般的に立っているより座っている方が楽だと思われています。確かに立っていると足は疲れます。でも上半身は自然で楽な状態に保たれているんです。座っていると背骨はS字からアーチ型に変形することになり、負荷がかかってしまいます。ずっと座り続けていると腰にくるのはそのせいなのです。

勤め人で特に内勤の人などは勤務時間の大半を椅子に座って過ごしています。そのときの背骨はアーチ型になっていることが多い。PCの操作や伝票処理をするときには、どうしても前かがみになってしまうので、背骨は必然的にアーチ型になってしまうのです。せっかくS字型の背骨を手に入れて直立二足歩行できるように進化したのに、このままずっとアーチ型背骨の状態で働き続けると、100万年くらい先には四足歩行動物に退化?してしまうかもしれません。

立ち仕事は人類を「進化」させる

小学校の授業参観に行くと、落ち着きがなくていつもゴソゴソしている子供を見かけます。こうした落ち着きのなさは、集中することを覚えていくにつれてなくなっていくものです。でも大人の中にも落ち着きのない人はやっぱりいます。オフィスで働いているときに頻繁に姿勢を変える人っていますよね。足を組んだり、腕組みをしたり、上体が前後左右に動いたり・・・。いい大人なのに一定の時間じっとしていられないのはなぜでしょう。これは身体に溜まってきた疲労を他の部位に逃がしているからだと思われます。身体だけでなく、考えがまとまらず頭がくたびれたときに気分転換したくなるのも同じ理屈でしょう。

そうなんです。生身の人間は身体や頭が疲れるようにできているんです。同じ姿勢のままで根をつめて仕事をしていると、心身に負荷がかかって結果ろくなことにはなりません。特に悪い姿勢(アーチ型の背骨)を長時間続けていると腰への負担が大きくなり、腰痛を招く可能性が高くなります。

そこで最近よく言われるのが「ときどき立って働くことのススメ」です。
1時間の座ったままで仕事をする場合と1時間のうちで10分ほど立って仕事する時間を組み込んだ場合とを比較する実験をしてみたところ、立ち仕事を組み込んだ働き方には多くの効果があることが判りました。身体の疲労感が軽減される、脚がむくみにくくなる、腰の痛みが減る、そして眠くなりにくくなる、など。少しの時間立って仕事をする働き方は、いいことずくめという印象です。人類が勝ちえたS字型の背骨の威力おそるべし! 私たちは先祖伝来のS字型をもっと大事にしなければいけないのです。

立ち話、立ち聞き、立ち読み、立ち飲み、立ち食い、立ち小便。立ち〇〇という言葉はずいぶんたくさんあることに気づかされます。これに対して座り〇〇は座りこみくらいしか思いつきません。ここに挙げた「立ち〇〇」はいずれも比較的短い時間にちゃちゃっと済ます行為。本来人は、落ち着いて、しっかりと何かをするときにはそれを座ってやらなければならないのです。「立ち〇〇」は、本来の姿ではなく立って行うのでそれを言い表す熟語が必要になってつくられたのでしょう。ですからデスクワークをする場合でも、基本は座って仕事をしていて、ときどきは立って働く、というやり方が現時点では良いのです。

働く姿勢のさらなる「進化」

立ったり座ったりしながら仕事をするやり方が現状ではおすすめなのですが、これはあくまで「机×椅子→アーチ型背骨」の図式を前提にした話です。そもそもなぜS字型の背骨をキープできるように執務用の家具は開発されなかったのでしょう。それは働くときに使う道具が紙とペンだったから(いやいや机や椅子はエジプト文明の時点で既に存在していたから正しくはパピルスと葦ペンか・・・)。当時は生理学的な知見は不足していたし、今でいう人間工学的な発想などなかったでしょうから、人間のS字型の背骨のことなどお構いなしに、執務用の机と椅子は考案されたに違いありません。それ以降数千年を経た現代に至るまで、私たちは机と椅子で仕事をしています。背骨がアーチ型になっても何の疑問も感じないまま、他の選択肢を与えられない中で。

でもこれからのことを考えると、仕事で使う道具が変わっていくのは明明白白。現時点でも10年20年前と比べて紙に文字を書きこむことのなんと減ったことか。将来はもっと変わっていくことでしょう。今はまだ存在しないようなデバイスをみんなが使うようになるのなら、そのときはS字型をキープする作業姿勢を考え出し、その姿勢を支持する家具が開発されなければなりません。

だけどどんなSF映画を観ても、あいも変わらず主人公たちは椅子に座っているんです。『スター・ウォーズ』でも『ブレードランナー』でも『マトリックス』でも...。宇宙船の操縦席は椅子席だし、司令室でも現在私たちが使っているのと変わらない椅子に座っている。『マイノリティ・リポート』でトム・クルーズが立った状態で画面を操作しているシーンがあったのが唯一の例外(あくまで私の記憶している範囲です)。どうもSF映画の製作者は、働くときの作業姿勢までは考えが及んでいないように思われます。遠い未来、人間の脳とデバイスがつなげられて、考えたことがそのまま記録できるようになるかもしれません。そうなれば、机で前かがみになって仕事をする必要はなくなるし、立つはおろか歩きながらだって仕事をすることができるようになる。この「ながら仕事」の時代になれば、家具のかたちは今とずいぶん違ったものになるはずです。

最後に弁解

今回は働くときの作業姿勢をテーマに、アーチ型とS字型の背骨の話を中心にしてきました。話の展開上、椅子に座ると背骨がアーチ型になりがちでよろしくないと、椅子をすっかり悪者扱いしてきましたが、現在の事務用椅子の多くは、背筋を伸ばして座ったとき背骨がきちんとS字型になるように設計されています。仕事ををするときに極力前かがみ状態にならないようにして椅子の背に身体をあずけるようにすれば、アーチ型背骨にならずにすみます。皆さんぜひ今日からやってみてください。

「座る」と「立つ」をめぐる今回の話はこれでおしまいにします。来月またお会いしましょう。それまでの間ごきげんよう、さようなら。

第5話 完

 2016年11月22日更新

 

テキスト:鯨井 康志
写真:岩本 良介
イラスト:
(メインビジュアル)永良 亮子
(文中図版)野中 聡紀