自分を犠牲にしなければ、他人はしあわせにできないのか? 6回の転職経験から見つけた答えとは(文筆家・ひらいめぐみさん)
倉庫やコンビニでのアルバイト、Webマーケティング、書店スタッフ、広報、編集・ライター……。文筆家のひらいめぐみさんは、20代で6回の転職の経験をまとめた書籍『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)を著しました。
人間関係、社風、収入、会社の業務や提供するサービスなど、すべてに100%満足しながら働くのは難しいことでもあります。わかっていても、違和感を覚えたり、時には「何のために仕事をしてるんだっけ?」と疑問に思ったりすることも……。
ひらいさんも、さまざまな場所で働きながら疑問を考えてきた一人。6回の転職経験から見つけた「お仕事の意味」について、綴っていただきます。
ひらいめぐみ
文筆家。1992年生まれ、茨城県出身。2023年12月、『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)を出版。過去の著作に『おいしいが聞こえる』、『踊るように寝て、眠るように食べる』がある。
自分の不幸の上に、ほかの人の幸福がある?
かつて、「自分の不幸の上で、ほかの人の幸福が成り立つ」と思っていた時期があります。
20代で6回の転職をした経験をつづった自著『転職ばっかりうまくなる』で、「どんな仕事に就くかよりも、自分がみじめにならないこと、自分自身を極められることを選ぶのが、なにより大切なのではないかと思う」と書いていますが、そう思えるようになったのは、6社目の仕事を辞めると決めたときでした。
生まれ育った環境や、子どもの頃に言われた言葉、幼い頃に体験した出来事の影響で、大人になってからも、自分が我慢をすれば、自分が不幸でいることで、ほかの誰かがしあわせになるのだと考えていました。友だちが「ひとのことばかりじゃなくて、自分のことも考えなよ」と心配してくれても、どうやって自分のことを考えたらいいのかわからない。大学を卒業し、仕事選びをするときも同じでした。
自分と他人、どちらとも思いやるのは難しい
大学時代に、コンゴ民主共和国の紛争問題を知ったとき、「知った責任がある」と強く思いました。誰かのために頑張ることならいくらでもできると考えていたわたしにとって、その問題に出会ったことはおそらく好都合だったのかもしれません。それ以降、生活の中心に、コンゴの支援活動を置くようになりました。
大学を卒業してからも就職をせず、学生のときから続けていたコンビニのアルバイトをしながら、コンゴのことを伝えるためのイベントの準備を並行していました。数千人が来場するイベントの運営費をまかなうため、こっそりアルバイトをかけもちし、1〜2時間の睡眠でなんとか毎日をしのぐため、1日に何度もカフェインを摂取しました。のちに不摂生がたたって大腸から出血するようになりますが、自分で自分を傷つけている自覚はほとんどなく、際限なく働けるわけじゃないんだなあ、と体力の限界にがっかりするだけでした。
さすがに大腸から出血するような働き方をしつづけるのは無理があると思い、転職をします。しかし、どこへ行っても体調を崩すことが多く、コンゴの支援活動につながる仕事を探しては辞め、探しては辞めるの繰り返し。
そこでようやく気づいたのは、自分が「なんでもそつなく仕事をこなせる人間」ではないことでした。仕事も生活もままならないのに、コンゴの支援どころじゃない。まずは自分のために自分の人生を生きないとだめだ、と考えをあらためました。
そこからはおそらく、何度か「自分のため」を基準に選べるように試していたと思います。2社目の大手人材会社の営業職が合わずに退職したときも、ふたたびアルバイトに戻ったけれどやはりお金の心配のない仕事をしようと転職したときも、自分のやりたかった文章の仕事に就いたときも、ほかの誰でもなく、自分のためにとった選択でした。
しかし難しいのは、「自分を思いやること」と「ほかの人を思いやること」が両立できない場合もあるということです。
アルバイトの掛け持ち生活をやめて大きな人材紹介の会社に就職したら、とにかく営業の成績を達成することが第一だとされました。飲み会に参加すると、たいてい「〇〇は今月1000万いったらしい」「つぎのクオーター(四半期)で目標△△万だから……」と売上の数字に関する話が飛び交います。
売上が高ければ高いほど、目標を達成すればするほど、自分自身の年収は増え、役職も上がるので、営業成績は誰にとっても関心の高いトピックでした。高い売上を目指すことは、自分のこと、会社のことを考えれば、悪いことではないように思えます。
ただ、毎月月末の最終日には、なんとしてでも数字を出すために強引に関係者に掛け合う同僚や先輩の様子が見られ、もやもやしました。お客さんは、しあわせなんだろうか。わたしの仕事は、ひとの人生を操作する仕事ではないと、言い切れるだろうか。結局、答えを出すより先に体調を崩し、仕事から離れました。
一方で、ほかの人だけを思いやることで苦しい期間を過ごした仕事もあります。新しくできたばかりの会社で、社員がわたし一人という状況にいたとき、次第に上司から強い言葉を向けられるようになっていました。
それでも、自分が辞めたら困るのは目に見えていたし、多数の応募の中から採用されたたった一人なのに、期待を裏切るのは申し訳ないという気持ちがあり、なかなか「辞めます」と切り出すことができませんでした。最終的には退職できましたが、つくづく仕事において自分とほかの人のしあわせを両立するのは難しいなと感じた経験です。
仕事を通して、誰をしあわせにするのか
中学生のとき、国語の先生からこう言われたことがあります。「あのね、しあわせじゃない人がほかの人をしあわせにしようとしたって無理なの。自分をしあわせにできないやつが、ほかの人をしあわせにできるわけがないんだから」。
この頃のわたしはまだ、自分が不幸せなほうが、誰かがしあわせになれると思い込んでいました。だから、先生のこの言葉を聞いたとき、すごくびっくりしたんです。
10代の頃はぴんとこなかったけれど、大人になった今では、先生の言葉の意味がよくわかります。苦手なのに無理をして人の何倍も時間をかけて働いていた頃は、一緒に働く人にも、取引先のお客さんにも必要以上に迷惑をかけていました。
しかし、今の文章を書く仕事に就くようになってからは、自分が満たされた状態で仕事ができ、一緒にお仕事をする方も、文章を読んでくださる読者の方も喜んでくれているなと感じています。転職をして見える世界ががらっと変わったとき、「お金をもらっているのだから多少の我慢は必要」というのはただの幻想なんだと気づきました。
世の中がうまく回っているように見えても、誰かが我慢した状態なのであれば、その誰かが犠牲になっているだけです。そんなふうに無理をする人がいなければ回らない社会なら、その歪みはどんどん大きくなっていくのだろうなと思います。
仕事とは、誰かをしあわせにすることで、自分もしあわせになることです。
誰かの困りごとによって生まれている「仕事」のなかには、自分を犠牲にしなくてもできることがきっとたくさんあります。わたし自身、仕事だから我慢しなきゃいけない、と思っていた時期がありました。お金を稼ぐためなら、多少の我慢は必要なんじゃないか、と。
でも、そんなことはありません。まったく同じ月給で、まったく違う労働環境があることを知っています。誰かが我慢しなければ、無理をしなければ回らない仕組みになっているだけです。
自分が辞めたら、ほかの人が困るかもしれない。懇意にしてくれているお客さんに迷惑がかかるかもしれない。この文章を読んでくださっている方の中には、誰かのことを思うあまり、今まさに仕事で悩みを抱えている人がいるかもしれません。
わたしは、誰かの不幸の上で自分のしあわせが成り立つ社会にはしたくない。身近な人にも、この文章を読んでくれた人にも、そう思ってもらいたい。
だから、まずはわたし自身が、ほかの人をしあわせにしながら、自分もしあわせだと胸を張って言える仕事だけをしようと思います。誰もが当たり前に、“仕事とは、ほかの人をしあわせにすることで、自分もしあわせになること”だと思える日がくることを願って。
編集=桒田萌(ノオト)