人々がより良く生きる豊かな未来のために -「理論」と「実践」のマラソンランナー・井上博成
2024年4月の開学を目指して、岐阜県飛騨市では初となる大学、Co-Innovation University(仮称)が設立される動きが注目を集めています。その設立準備に、現在進行形で奔走しているのが、一般社団法人 飛驒高山大学設立基金 代表理事の井上博成さんです。
そんな井上さんに、Open Innovation Biotope “Cue”のメンバーが会いに行く!
井上さんの、「理論」と「実践」の軌跡を、どうぞご堪能下さい。
井上博成(いのうえ・ひろなり)
平成元年(1989年)生まれ。岐阜県高山市出身。東日本大震災をきっかけに地域の新しい価値を感じ、出身地である高山市と京都大学との間で2014年~自然エネルギーに関する研究開始をきっかけに高山市へ戻るようになる。京都大学大学院経済学研究科博士課程研究指導認定退学。主な研究領域としては自然資本と地域金融。自然エネルギーを研究⇔実践する中で、小水力では、飛騨高山小水力発電㈱を設立(2015年)し、そののちも各地に法人を設立しながら全国各地で小水力発電の事業化を行う。木質バイオマスを研究する中でエネルギー利用のみならず、木材そのものの利用に高い関心を持ち、飛騨五木㈱(2015年)の立ち上げや、金融視点から東海地方で当時唯一の管理型信託会社である、すみれ地域信託㈱(2016年)の設立など理論と実践とを日々往復している。
まさに、文武両道の学生時代
WORK MILL:井上さんの想いは、どのように育まれてきたのか、そのルーツをさぐるために、学生時代に打ち込んだことについて教えてください。
井上:ずばり「野球」です。
僕は、野球少年だったんです。小学校3年生からずっと野球部で、甲子園に憧れ、ひたすら野球に打ち込む日々を過ごしていました。だから、高校は、甲子園を目指すことができる学校に入りたかったんです。
だけど、両親や先生からは、地元の進学校に進学することを期待されていて…。中学校は、当時地元ではすごく強いチームだったと思います。さらに、5番・キャッチャーだった私には、有名な強豪校から「野球推薦」の話も来ていたという都市伝説もあるのですが(笑)いろいろな事情で、その話が私の元に届くことはありませんでした。ただ、当時は、野球の強豪校にいって甲子園に行きたいという自分の強い想いもあり、県内の野球強豪校を、個人的に受けに行ったんです。
受験したのは、いわゆる「進学コース」。文武両道で行けば、親にも反対されないだろうと。
ですが、僕の想いとは裏腹に、合格したにもかかわらず、親には大反対されました(笑)
いま思えば、愛情からくるものだったと思うのですが、当時は反発しつつも地元の進学校に行くことにしたんです。
高校生活は、念願どおり、野球漬けの日々でした。2年生からは、野球部のキャプテンを務めたり、昼休みにはバスケットボールをしたり、部活がない放課後にはサッカーをしたりと、スポーツ好きな若者だったと思います。
学生時代のプライベートを知る友人からは、近況を見て「丸くなったね。」といわれたりもします(笑)
そして、大学進学を考える時期になり、自分の人生で、何を成し遂げるべきかを真剣に考えました。
僕は、飛騨高山に生まれ育ち、宮大工の家系筋ということもあって、「飛騨の匠の文化」に触れる機会が多かった。飛騨の匠は京都とも深い関係があり、飛騨高山は小京都とも呼ばれていたことからも「京都」という街に、強い繋がりを感じていました。さらに、旅行などで京都を訪問するたび、街の活気に魅せられ、「進学するなら、京都の大学!」という想いを募らせていったんです。
「官僚」を目指して、日夜勉学に励む
WORK MILL:ところで、井上さんは、官僚を目指したことがあるのだとか。
井上:3年生の時に、JC(日本青年会議所)という団体が、学生をロシアに派遣して交流させようという事業があったんです。
驚いたことに、これに参加していた仲間の多くが、官僚を目指していた。これは僕にとって、大きな刺激でした。当時の僕にすれば、「国益」という言葉のスケールに壮大なロマンを感じたわけです。当時、官僚という仕事に関心も持っていましたので、僕も官僚になろうかな、と思って勉強に集中しはじめたのもこの時期です。
実際、多くのメンバーが、本当に官僚になっていったと記憶しています。
そして、4年生に上がる直前に、東日本大震災が起きた。あの災害を通じて、改めて「自分は何をすべきか」ということを、改めてドーンと突き付けられた気がしたんです。
世の中が東日本大震災一色になっている中にあって、僕は相変わらず受験勉強を続けていたのですが、官僚を目指す動機が、ちょっと弱いということに気づきました。
というのも、当時の僕は、地域での教育、さらには大学づくりへのアプローチの手段として「官僚」になり、そしてその先に「政治家」になるといったような道に関心を抱いていたのですが、その手段そのものが本当に正しいのか、また本当にその道が問題意識にそっているのか。
より自分自身の思考を深めた上で、意思決定をしようと考え、大学院へ進学しました。
同時に、東日本大震災に関する報道などで、地域の惨状を目の当たりにするたび、「地域はこれでいいのか」と、考え始めるようになりました。特に、東日本大震災と福島第一原発の原子力災害という二重災害により明るみになった地域のエネルギー問題を通じて、「地域の在り方」というものに、より高い関心をもっていったように感じます。
まさに、東日本大震災をきっかけに、もともと抱いていた「飛騨高山に帰りたい」という想いと、「地元に大学があれば」という希望が、僕の中に生まれたといっていいと思います。
早速、「大学ってどうやってつくるんですか」と当時の担当教官であった、植田和弘先生(京都大学名誉教授)に尋ねたら、「井上君は、地域で自分で事業をやって、関係者に支えてもらいながらお金をためて大学をつくった方が向いてるよ」と言われたんです。僕はその時、素直に、「地元に戻ってビジネスにするのが近道かな」と思いました。植田先生は、日本における環境経済学の草分け的存在でもあった。そこまで実績を積まれている方の声には、説得力がありました。