働き手の心理から探る:「失礼にならないように」生産性を下げる日本の働き方
働き方改革がなぜうまく進まないのか。前回に続き、日本企業の現場に潜む働き方の問題点を浮き彫りにしていきたいと思います。焦点を当てたいのが日本人独特の日常の表現に潜む心理がもたらす問題点。仕事上当たり前だと思っていることは、意外とこの心理によってもたらされる大きな無駄である可能性があります。
失礼にならないように・・・
今回取り上げたいのが「失礼にならないように」という心理。日本人はこの「失礼にならないように」という一心で、一生懸命仕事を増やしていると私は捉えています。礼を重んじる日本人の国民性が背景にあり、ひとつひとつの行為に決して悪気はないのですが、残念ながら仕事の無駄がどんどん積みあがっていく。やればやるほど複雑さや曖昧さが増長し、これが日本における生産性を大きく下げる要因になっています。
このことについては日本マイクロソフトの澤円さんも「礼儀正しく、時間を奪う」と、日本の働き方の問題点を同様に指摘しています。澤さんのセミナーを収録したこちらの記事で詳しく表現されていますので、是非合わせてお読みください。似たような視点ではありますが、私もこの問題に経験を踏まえて切り込んでいきたいと思います。
メール編(宛名):役職の階層通りちゃんと並んで記載しないと失礼だから
メールで会議開催通知を送るシーンからいきましょう。会議としての意義や位置づけが大きくなればなるほど、出席者の数は増えていく傾向にあります。多くの部門が関わり、役職者が数多く参加するような会議の調整は特に大変な仕事です。役職者はただでさえメールが多いので、大事なメールであることを気づいてもらうために本文中に宛先を書かないといけないという不文律が組織には存在していて、みなそれを不思議にも思わず遂行しているのです。たいていの場合組織には一定の順序があるものです。業務プロセス順だったり、組織階層順だったり。その順序通り並んでいないとどうも気持ちが悪くなるものです。
最新の人事情報をしっかり反映しているかも配慮が欠かせません。1月や7月というカレンダー的な節目だったり、4月や10月といった年度的な節目だったりすれば比較的大量に人事異動や昇進があるため意識が向いていますが、そこから外れた月はついおろそかになりがち。役職を誤って記載すると「おいおいだめじゃないか。開発の鈴木さん、今月から副部長になっているの知らないのか?」なんて指摘が周囲から飛んできます。
そして最後に、宛名がメールアドレスとして宛先欄にそのままの順序で並んでいるかのチェックが始まります。本文中に書いた順序通りに並んでいないとこれが気持ち悪いんですね。もちろん宛先の漏れがないかどうかを確認するためにも、そのままの順序で並んでいないと誤りを見つけにくいということも背景にはありますが、「なんで自分があいつの後ろに書いてあるんだ」みたいな指摘が飛んでこないように、細心の注意を払って確認が続きます。そして意外とここで陥りがちなのが、せっかく組織順に並んでいたアドレスを、「宛名は組織名を記載するから組織順だけれど、組織を記載できない宛先欄は、やはり役職順にしないと失礼ではないか」と悩み始めてしまうこと。カットアンドペーストでメールアドレスを移動させていきながら、マーカーで宛名とアドレスをチェックして…途方もない作業にハマっていきます。
ここまで2時間くらいかけて開催通知の大作が出来上がります。何度も何度も見直して、組織や役職の序列に誤りがないことを確認し、本文にも誤字がないか細かく確認。若手の社員が作成した場合は先輩社員が内容を確認し、同じように序列をチェックして、アドレスに漏れがないか入念なチェックが続いていきます。そしてようやく送信ボタンを押す段階に。しかし、送信後しばらくは「誰かから誤字を指摘されるのではないか」「曜日が誤っていたりしないか」ということに怯え、30分くらいしてようやく一定の爽快感に包まれます。メール作成開始からここまでですでに2時間半。一仕事したような気になってしまいますが、実は2時間半かけて会議の調整しかしていない。この生産性の低さは、あまり現場で認識されることがありません。失礼にならないように膨大な仕事を生み、その結果として得られる「一仕事終えた感」が麻薬のように組織の感覚を麻痺させていくのです。
メール編(本文):失礼にならないように使う謎の表現
大きな会議の開催通知だけではなく、日常の他愛もないメールにおいても問題は潜んでいます。
対外的なメールの冒頭に何故かあらわれる「お世話になっております」。本人は一切お世話になっていない初めての人でもこう書かれることに違和感を覚えたことはないでしょうか。もちろん会社や組織を代表して交信しているわけで、送信先にはお世話になっているのは間違いありませんので、効果的に使うのにはとても意味があることです。しかし、この表現は儀礼的に登場することの方が多い印象です。言葉というものはやはり乱発していては意味を失うもので、日ごろから「お世話になっております」を乱発していては、本当にお世話になっている人や事象に使うときにとても軽いものになってしまう。その時のために本来は取っておくことが望ましい表現ではないでしょうか。
そして社内のメールの書き始めの常套句は「お疲れ様です」。朝一のメールにも関わらず「お疲れ様です」が多いですね。対面での挨拶でもよく出てくる言葉です。幸福学を専門とする慶應義塾大学の前野先生も、著書で以下のように述べています。
「お疲れさま」という言葉は、「私達は疲れている」というメッセージを互いの脳に刷り込もうという企みです。ありえない。こんな挨拶、いりません。月曜の朝から、元気いっぱい働こうと思っているのに、どうして「お疲れさま」と水を差す必要があるんですか。しかも、「さま」というのは何様ですか。疲労の王様ですか。もう、日本中から「お疲れさま」を葬り去ったほうがいい。「お疲れさま」禁止です。(「幸せのメカニズム 実践・幸福学入門」P172)
決して悪気がある表現を本人はしているわけではなく、これも失礼にならないように発する表現の一つでしょう。しかし、もしかしたら日本の生産性が一向に上がらないのは、この「お疲れ様です」が原因と言えるかもしれません。疲れていることがデフォルトであり、「みんな一様に疲れているから、一様に成果が上がらなくても仕方ないよね」という言い訳の温床になっているといえなくもない。
そしてメールの最後に現れる謎の表現が「よろしくお願いします」。不思議なもので、こう書かないとメールが締まらない気がする。この表現がないとメールが終わらないのですね。「以上」とか書くと失礼な気もするし、何も書かないと「メールを途中で送ったのではないか」と相手に思わせて失礼になってしまう。そんな心理で追加される、これも意味のない表現です。言葉の意味をたどってみても、「何をどういう程度まで仕上げてほしい」という具体的なお願いではなく、「よろしく」お願いする。「そこんところひとつよろしくお願いしますよ」という、実はこの方が失礼に当たりそうな表現を、なぜか使うという逆転現象がおきますが、書く方も受ける方も全くその点に気付いていない。
言葉遣い編:失礼にならないように考えすぎてしまう
失礼にならないようにするあまり、逆に失礼になっている本末転倒のケースもあります。こうなると本当に何をやっているのかさっぱり分からなくなります。その代表的な事例が、敬語。確かに日本語の敬語はいくつもの表現がありますが、必要以上に悩みすぎて失礼どころか生産性も下げている印象を私は持っています。
「させていただきます」の二重敬語表現がその最たるものでしょう。本来の意味は、「誰かに許可をもらって、やらせてもらう」という意味です。それを、自分の意思でやっているはずのことにも使っていませんか。たとえばセミナーイベントの冒頭で、主催者が挨拶するシーンを想定してください。「こちらの会場では、毎月さまざまなイベントを開催させていただいております」なんて表現、よく聞きますよね。しかしセミナーを開催するのに、外部の誰かの許可が必要なのでしょうか。「させていただく」というのは受け身な表現でもあり、自信がなく聞こえるものです。貴重な時間を割いて参加している人たちに対して、主催者側が自信がないというのはむしろ失礼なことですよね。そうではなくて、自分たちで企画して自分たちで運営しているのであれば、「さまざまなイベントを開催しています」とシンプルに伝えた方が良いに決まっている。その方が清々しく、そしてお互いのためになっています。
「おっしゃられる」という表現もよく聞きますね。「おっしゃる」ということだけでしっかりした謙譲語なのに、そこにさらに「られる」という尊敬語をつけてしまう。
生産性との関連性がわかりづらいかもしれませんが、「失礼にならないようにしっかりとした敬語を使わなくてはいけない」ということに意識を払うあまり、本来そこで伝えたい内容から意識が逸れてしまいがちです。話しながら、あれ?「おっしゃる」だけで敬語になっているんだっけ?なんてことに意識を払いすぎていないでしょうか。それに加えて、「させていただきます」「おっしゃられる」という表現は意外と滑らかに出てこないものです。「られる」「させていただく」という表現が付け加わることで、お茶を濁したような何となく表現しきった感覚を得られているだけです。敬語は義務教育で習う範囲の表現で十分適切であって、シンプルに使いこなした方がいいはずです。
なぜこうした行動をとってしまうのか
これらの問題はなぜ起こるのでしょうか。これもいくつかの視点で考察していきましょう。
原因①:紙で仕事をしていたときの名残
まず一因として、紙で仕事をしていた時のやり方に囚われすぎている。例えばメールより以前は紙で開催通知が配信されていたと思いますが、本文内への宛名の記載はその時の名残といえるでしょう。紙の時は役職者として名前の記載があったのに、メールで書かないのは失礼にあたるから、とデジタル化以前のやり方をそのまま継続しているところにこの問題の根源があります。受け取る側も、こういったことで失礼に感じるような風土は改めていかないといけなません。
少し話題はそれますが、ファイルサーバーのフォルダ体系や、ファイルの命名ルールなどについても細かく決めている職場も多いでしょう。これも紙で出力して、バインダーに綴じてキャビネットにしまう、従来のやり方をデジタルにそのまま移行したものです。しかし決めた直後に出てくる悩みが、「この資料は複数の属性に関わるけれど、どのフォルダに入れるべきか?」ということ。たとえば製品個別のフォルダなのか、それとも「投資採算性の検討」など、横断的に実施する業務のフォルダなのか…結局どちらにも保存することになる場合も多く、そうなると複数フォルダに同一ファイルが存在するという重複の問題と、どちらかのファイルだけが更新されてしまうという情報の正確さの問題が出てきます。もう、似たような名前で同じような内容のファイルが量産されていきます。
そしてそのルールは、あくまで決めた人の論理によるもの。利用者の探しやすさには配慮されていないケースも少なくない。そして意外と決めた本人ですら、煩わしくてそのルールに従うことが難しくなってしまい、有名無実化していくケースも少なくありません。わかりやすくしようとするあまり、むしろわかりにくくなっていく。何とも矛盾した虚しさを感じる仕事です。
原因②日本語の特性
日本語はとても表現が繊細です。そして文章の組み立て方が変幻自在なので、あいまいな表現を生みやすい言語環境です。主語が無くても前後の文脈で理解することができるし、語尾にもいろんな表現が付け加わる。そうして結局あいまいであったり、当たり障りのない表現をわざわざ追加して「もやに包まれたような」メールや言葉を交わし合っているのが日本の働き方です。だからこそ、アクションが不明確になってしまい、何となく仕事が毎日進んでいく。時間ばかりかけて成果が出ていないため、これは本来は望ましいことではありません。
原因③失礼を必要以上に咎めすぎている
失敗が許容されにくい環境にあるのも原因と言えるでしょう。このレポートでも「失礼であることの問題点」をいくつか指摘している個所もありますので矛盾するようですが、配慮と過度の気遣いは本質的には異なります。会議の開催通知の日付やアジェンダが誤っていたら会議が開催できませんから、それらの情報は正確に書く配慮が必要。しかし、宛名の並びやなど本来はどうでもいいことです。情報があふれ、ビジネスのスピードを上げていくことが望まれる環境において、細かな失敗を咎めることはお互いのためになりません。時間がゆったりと流れているビジネス環境であれば丁寧に丁寧に進めていった方がいいかもしれませんが、はたして本当にそうでしょうか。肝心な情報はしっかり伝える一方で、小さなミスはお互いさまで許容していく。こういった気持ちの持ちようが必要ではないかと感じます。
原因④人間が介在していないと失礼になると思い込んでいる
いろいろと考えてみるものの、おそらくこれが最大の原因ではないかとも思います。デジタルな情報や伝達だけでは失礼にあたるので、人間が介在しないといけない。そう過度に思い込んでいないでしょうか。文字だけでは伝わらないことを補足するために、また相手の確実なアクションを促すためにといった理由で、直接対話や電話でフォローをするというのは確かに意味があることだとは思います。しかし、データで送られてきたものはどこか信用に欠けるので、話を聞く側も話す側も直接対話を求める心理も表裏一体で確かに存在します。対面で物事を伝えないといけないという一種の強迫観念であり、デジタルへの不信感とも言えます。Skypeのようなオンライン会議に抵抗感がある人や組織もまだまだ少なくはありません。「直接伝えに来るのが筋だろう」ということで、会議の設定が後ろ倒しになるのはよくあることです。
物理的・時間的に場を共有する直接対話はとても重要な手段ですが、すべてのコミュニケーションをそうして実現しようとするのはやはり無理があります。話をするも受ける側も、マインドを変えていかないといけないと思います。
また、これらの原因は以下のように複合的に影響を及ぼし合います。メールがたくさん来るものの、冗長な表現が多いので読んで理解するのに時間がかかる。メールだけでは伝わらなくなるので、対面で伝えようとする。関係者の予定が合わずに、直接対話の場がどんどん先送りされていく。これでは日本の生産性は一向に上がりようがありませんね・・・
まとめ
是非日常の仕事のシーンを、「失礼にならないようにという思いで仕事を増やしていないだろうか」という視点で見直してみてはどうでしょうか。「わざわざ宛名を書く」という事例に代表されるように「わざわざ」という言葉がつくものは、基本的にはほぼ必要ないことと思って問い直した方が良いと感じます。「こうすることが当たり前だ」と思いこみすぎていてなかなか難しいプロセスだと思いますが、本当に人間が介在し、これらの手間をかけるだけの意味があるのか。労働人口が少なくなる中で日本の働き方の生産性を上げていくためには、ぜひともメスを入れなくてはいけない領域だと考えます。
2018年12月18日更新
テキスト写真: 遅野井 宏
写真:遅野井 宏
イラスト:野中 聡紀