タイに学ぶ幸せな働き方 ー PAPER MAGAZINE特別号取材レポート
先月末、ペーパーマガジンWORK MILL 特別号を刊行しました。特別号の特集は「HAPPY WORKPLACE APPROACH―企業は「幸福度」で成長する」と題し、働き方における幸福感について論じています。その特集の取材国として選んだのが、同じアジアの一員であるタイ王国。タイに、アジア流のエンゲージメントの在り方を学びました。今回のレポートは、誌面の都合上本誌には掲載できなかった取材の記録です。
国王崩御後のタイ
取材で訪れたのは昨年12月。10月に国父として慕われたプミポン・アドゥンヤデート前国王(ラマ9世)が崩御した後、国中が喪に服す状況での取材でした。
いたるところに国王を偲ぶ祭壇が設けられ、街ゆく人たちはほとんどが喪服や黒い服装。バンコク市街を彩る大型ショッピングモールは通常営業ではあったものの、ファッションブランドは黒い服を中心に陳列し、アクセサリーを販売する店ではラマ9世の「9」の字をかたどったピンやブローチなどを販売。このほかにも国王の功績をたたえたTシャツが販売されていたり、追悼のコンサートがインストアで開催されていたり。タイを訪れたのはこれで6回目でしたが、色彩豊かな平常時の様相とはかなり異なる状態でのバンコク滞在でした。
もちろん取材先も状況は一緒で、建物のエントランスや受付付近にも花に彩られた祭壇が設営されており、事前取材で訪れた際に見た「写真写りの良さそうな展示」が一部撤去されているのは誤算でしたが、大勢には影響ない範囲で収まりました。
取材に対応いただいた方々だけではなく、従業員の皆さんも工場の作業着・制服を除けば基本的に黒い服。取材メンバーである我々も黒いジャケットと喪章を着けて各所を訪問しましたが、この対応はとても喜ばれ、インタビューの冒頭に感謝を表明いただき、その後の対話がスムーズに進行する企業もありました。
タイでは所属する会社のオリジナルウェアを通勤中から来ている姿が一般的ですが、dtac(ディータック)のカンパニーショップでは企業ロゴをあしらった黒いシャツが販売されていて、喪に服しながらも皆思い思いのファッションを楽しんでいるようでした。本誌に掲載した写真に写る方々に黒い服装の方が多いのは、こういった背景があります。
国をあげた職場幸福感の枠組み「Happy Workplace Program」
「幸せに働く」ことの取材先として、なぜタイを選んだのか。それは職場幸福感について政府主導で取り組み、広く社会に浸透しているHappy Workplace Programという枠組みがあるからです。これは政府機関であるタイ国健康促進財団(タイヘルス:Thai Health Promotion Foundation)が開発・推進する健康促進プログラムで、Happy8といった8つの観点で職場幸福感が構成されており、個人・組織の幸福度を計測できる調査の仕組みも持ち合わせたもの。この具体的で実践的なプログラムはいかにして生まれたのか、同プログラムの開発者であるチャンウィット博士にその理念を伺っています。
また特筆すべきはタイヘルスのオフィス。タイの伝統的な建築様式をモダンに取り入れたこのオフィスは圧巻で、さわやかな風が抜けるとてもすがすがしい空間。建築的に美しいだけでなく、広く一般に開かれた政府機関の庁舎という意味でも、一見の価値ありです。
2000を超える企業や組織が導入している同プログラムから、事例企業を資本の違いをベースに選定。外資系企業のdtac、日タイ合弁企業のLion Corporation Thailand(以下タイライオン)、そしてタイ企業のOSOTSPA(オソスパ)を訪れました。
■タイライオン
ブーンヤリット社長には長い時間インタビューに対応していただき、タイの価値観を反映した経営理念を伺いました。「ここまで社員のことを考えている経営があるのか」と思わず涙したことが昨日のことのよう。
取材ではバンコクの工場を訪れましたが、昨年6月の予備取材時にはチョンブリー県シーラーチャー郡にあるシーラーチャー工場も訪問していました。より広大で規模の大きな工場であるシーラーチャー工場には「Humanized Hall」と銘打った特別なコミュニケーションスペースがあり、残念ながら本誌には収録できなかったものの、同社のCSRを体現したこのホールは実に印象深いものでした。ホールのエントランスをくぐると、正面中央に配置された日タイ友好を象徴した大きな木のモニュメントに迎えられ、タイライオン創業からの歴史や「倫理ある企業:Business with Ethics」の理念とその展開コンセプト、そして企業としてのKPIやモットーなど経営からの様々なメッセージの展示が。またここは地域の子どもたちを招いた歯磨き講習等の会場としても使われており、それらCSR活動の実践と発信の場としての役割も。
■OSOTSPA
120年を超える老舗企業であり、日本企業との合弁事業も多く展開するOSOTSPA。
インタビューした人事部マネージャーのサシフォングさんは定年を目前に控え、高齢化するタイ社会のロールモデルのおひとりと言える存在で、定年に向けたプログラムをはじめとする充実した同社の制度を語っていただきました。
同社はタイプレミアリーグのサッカークラブOsotspa M-150 Saraburi FCのメインスポンサーでもあり、健康的な企業イメージが広く社会に浸透。日頃からサッカー観戦を趣味とする筆者は、偶然にも社名と名前が近しいこともあり6月の予備取材時にとても盛り上がりました。実は本誌の取材は当初昨年10月に計画されていて、その期間と重なる週末にちょうどバンコクで開催される同クラブの試合があることがわかり、観戦しようと目論んでいました。前述の通り国王の崩御を受け残念ながら当該試合の非開催が決定。他の理由も重なって取材自体がそもそも12月にスライドしたこともあり観戦が叶いませんでしたが、せめて記念にとユニフォームだけを購入して帰ってきたのでした。
■dtac
Happy Workplace Programの都市部におけるオフィスワーカーの導入事例として初めて接したのがdtac。
ここまで見てきたのがいずれも直接要員を多数抱える工場の事例であって、そのような現場にこそ生きるプログラムなのかもしれないという認識を持っていました。しかしdtacの事例に触れてその認識は一変。インテリアデザインの評価も高い近代的なオフィスにおいて、8つの幸福度指標に基づいて空間と活動がデザインされている同社の事例は、日本企業においても大きな示唆を与えてくれるものと感じています。今回掲載したのはインタビューメインであってオフィス空間については深く扱っていませんが、「社員の幸福感こそがイノベーションの原動力」という同社の考え方は、働き方変革の議論において重要なポイントです。
2020年を見据えてバンコクに学ぶこと
多くの日本人が、おそらく東南アジアの国々に対して「日本は一定のアドバンテージを持っている」と認識しているのではないかと感じます。それが実態を伴っていた時期は確かにあったとは思いますが、もはやそれは幻想に過ぎません。バンコクに出張するたびにいくつものコワーキングスペースや新しい形態のワークプレイスを訪れていますが、デザイン・運営形態は日本にも負けず劣らずですし、なにより日本以上にしっかりと活用されている。利用者も多国籍ですし、コミュニティも豊かに醸成されている。一部のコワーキングスペースの運営事業者も、より安定的な収益モデルであるサービスオフィス事業に業態転換するなど、運営自体も日本の一周先を行っている印象です。
※筆者注:もちろん成功しているコワーキングスペースだけではないのは日本と同じで、この点は昨年のレポート「コワーキングスペースを維持発展するために不可欠な3つの要素」で述べている「3つの要素」がバンコクでも同じように普遍性があると感じました。
また、インタビューでも訪れたNIDA(タイ国立開発行政研究院)においても、先生方の学歴を見るとほぼすべての方々が欧米の大学で学んでいる。つまり、アカデミックな議論を英語で展開できる方々が研究の最前線にいるということに他なりません。もちろんトップクラスの大学だからという事情は確かにあるとは思いますが、同校で学ぶ学生さんも英語で対話ができる。この背景にはグローバルな論文・文献のローカライズのスピードが日本よりも遅く、さらにスコープも狭いことがあるのではないかと推測できます。社会として外国人への心理的抵抗感も日本より低く感じますし、グローバルな視点でアジアを俯瞰した時に、東京がバンコクに対して有しているアドバンテージなどもはや幻想ではないかと感じます。
今回の職場幸福度向上の考え方は、労働環境における成熟度や宗教・王室の存在等さまざまな要因を配慮しないと、日本との比較を論じるにあたって公平さを欠くのではとも思います。しかし、多くの方々に取材を通して触れながら感じたのは、従業員の可能性を信じて暖かな視線を送る企業や組織の姿と、その活動を概念的に支えるHappy Workplace Programの理念・枠組みの存在。巻末のWrap Upでも記載しましたが、日本における職場幸福感の指標について、真剣に議論していくことが必要ではないかと感じています。2020年を控えて東京が変容しようとする中で、アジアの中でより豊かに東京の魅力を発信していくためには、東南アジアの隣国に学ぶべきことが少なくない、と改めて感じた取材となりました。
また、上述の優越感にも似たアドバンテージの意識を持ち続けていると、アジアで、またグローバルな環境下において、いつの間にか日本が井の中の蛙になってしまうということ。その状況に陥らないようにするためにも、客観的な視点を持つことがとても重要と認識しています。私たちがWEBマガジンや紙媒体を通じて何のために国内外の事例をリサーチ・発信しているかと言えば、まさにその点に尽きると言っても過言ではありません。日本を裸の王様状態から脱却させるためにも、危機感を持ってメディアを運営していきたいと思います。
2017年5月31日更新
テキスト:遅野井 宏
写真:遅野井 宏、長谷川 修
イラスト:野中 聡紀