「人が集まれば、何かが生まれる」——九条・町工場の夫婦が、はたらく景色を塗り替えていく(田村商店TEPPEN 田村友紀晃さん・久美さん)
機械部品や建築鉄骨を製造する「鉄工所」。最先端の技術で私たちの暮らしを支える尊い場所である反面、未だ3K(きつい・汚い・危険)のイメージが根強く、人材不足は大きな課題となっています。
そんな旧来の印象を覆そうと奮闘しているのが、工場が多く隣接する大阪・九条の田村商店です。専務取締役の田村友紀晃(ゆきてる)さんと妻の久美さんは鉄のアップサイクルブランド「TEPPEN」を開設。さらに工場をリノベーションしたスペース「TEPPEN WONDER LAND」を一般開放し、「日本空間デザイン賞2023」への入賞を果たしたのです。
「始めた頃は反対の声しかなかった」という田村さん。鉄工所に人が集まる場所を設けたことで、どんな変化があったのでしょうか。
町工場が40年で1/4にまで減少した
「田村商店」とは、どのような会社ですか。


友紀晃
1951年にボルトを製造する工場として創業しました。現在は橋梁や道路づくりの骨格になる金物を加工製作している鉄工所です。
世の中になくてはならないものを作っているのですが、地下やコンクリートに埋められ、人目に触れるケースはほぼありません。そのため業界外の方から「お宅は何を作っているのか、わからん」と言われた日もありました。

田村商店がある九条はどのような街ですか。


友紀晃
かつては「鐵(てつ)の街」と呼ばれる町工場の集積エリアでした。幼い頃はまちを歩くと機械油の香りがたちこめ、おっちゃん、おばちゃんたちが工場で何かを加工する光景が至るところで見受けられるのが日常でしたね。
現在はそうではないのですか。


友紀晃
ずいぶん変わりました。金属加工組合の調べによると、この40年で九条の町工場は1/4にまで減少したそうです。
業界として仕事が減っているわけではなく、需要はある。それでも町工場が減少するのは、従業員不足が原因です。職人は高齢化し、若い人材は集まらない。だから倒産ではなく、廃業という選択をせざるを得なくなるのです。
もったいないですね。田村さんが家業の田村商店へ入られたきっかけを教えてください。


友紀晃
甲南大学の法学部を卒業後、鉄鋼会社で秘書などをして、7年ほど勤めたとき、2代目だった父から「忙しくて手が回らない。うちで働いてくれないか」と頼まれました。それで家業に就いたのです。その直前に、妻と結婚しました。
久美さんは田村家の家業である鉄工所にどのような印象がありましたか。


久美
印象というよりも、まだ大学を卒業したばかりだったので、結婚で頭がいっぱいでした。
私は奈良出身で大阪へはよく遊びに来ていたのですが、九条という街があることさえ知りませんでした。新居は田村商店の上にあって職住一体でしたが、結婚後も工場に近寄ることはあまりなかったです。


友紀晃
足元の踏み場がなくて危ないことや、汚れてしまうこと、そして何より誇れるような雰囲気ではなかったため、「入っちゃだめだよ」と止めていたんです。当時はかなりワイルドな雰囲気の、よくも悪くも昭和で時間が止まったままの鉄工所でしたから。
友紀晃さんは家業に入られたとき、解決すべきだと感じた課題はありましたか。


友紀晃
ありました。業績は好調だったのですが、人が定着しないんです。新しい社員が入っても、すぐに辞めてしまう。人材の確保が一番の課題でした。
確かに工場を見ていて「若い人が果たしてここで働きたいと感じるだろうか」とは思いました。
「目的より先に、場をつくった」—それが正解だった
一方で、ここ「TEPPEN WONDER LAND」(テッペンワンダーランド)はカフェのような素敵なスペースですね。
鉄の端材や廃材を自社でアップサイクルした傘立てやハンガーなどがショールームのように飾られていて、雑貨店の雰囲気も。



友紀晃
鉄工所のイメージを、自分たちの手で変えたかったんです。九条にも町工場はたくさんありますが、どこも人手不足で、うちも同じ状況です。どうしても「泥臭い・古い」というイメージがつきまとって、若い人がなかなか振り向いてくれない。
そんな閉塞感を打破するために、まず「人が集まる場所」をつくることにした。具体的な目算があったわけではありません。
2022年にコロナ禍の事業再構築補助金を活用し、工場から廃材や機械類を移設。ブランドのショールームも兼ねた、誰でも入れる開けた空間をつくり上げました。
人を集めて何かする予定だったのですか。


友紀晃
いいえ。具体的な目的があったワケではありません。「人が集まったらご縁が広がって、絶対に新しい何かが生まれるはずだ」と。
とにかく「現状を変えなければ鉄工所、町工場に未来がないぞ」と突き動かされていたんです。
この空間ができるまで、工場に来客はなかったのですか。


友紀晃
ほとんどなかったです。年に数回、ゼネコンのお客さんが打ち合わせに来る程度でした。
外観や内装はメタリックな印象もあり、さすが鉄工所ですね。



友紀晃
「鉄って、こんなにも暮らしに溶け込んでいるんだ」と知ってもらいたくて。工場だった頃の面影は随所に残してあります。
金属製の什器は自社製です。木製のカウンターも工場から出た鉄粉を拾い集め、媒染して鉄の黒に染めました。
ただ「綺麗にリノベーションした」というわけではありません。鉄工所であったアイデンティティを引き継いだ空間でなければ意味がないですから。ここは鉄によって構成されたコンセプチュアルな場所だと思っています。

鉄工所の印象を変えるスペースに周囲はどのような反応を示しましたか。


友紀晃
3代目を継いだ兄は、賛成ではなかったと思いますが、私のやることを見守ってくれていました。
でも、やはり社内でも「そんな場所を作って何の意味があるのか」という雰囲気は強く、どれだけ説明しても理解してもらえない状況ではありました。当時はほんとうに孤立していましたね。
さらにつらかったのが、この空間に初めて訪れた協力会社の方に「入りにくくなったな~。前のほうが良かったのに」と言われたんです。数字に表れない投資だったため、周囲に意味を理解してもらうのは、正直とても難しかったです。

現在はどうなのでしょう。


友紀晃
ひっきりなしに人がやってきます(笑)。新規の商談や相談が毎日のようにありますし、通りがかった方が中を見せてほしいと入ってきてくださったりします。
イベントを開催したときは、1日で400名近い方が来てくれ、1年で1000人以上の方が訪れてくれていることになります。 鉄とは関係がない、アパレルブランドの方やドラマ制作会社が「撮影に使わせてほしい」とやってきたり、「パーティ会場として使わせてほしい」という依頼もあったりします。関西では老舗の展示会運営会社さんと、展示会後のアフターパーティーをこの場所で企画したりもしました。
1年で1000人とは、すごいですね! オープン当初から盛況だったのですか。


友紀晃
いいえ。始めの1年はぜんぜん知られていなくて、誰も来ません。妻が「イベントをやろう」と言って、それを決行したのが起爆剤となったんです。
僕はイベントを開催した経験がなく、発想もなかった。妻がいなかったら、この空間も無人のままだったでしょうね。

イベントの開催によって実際に得たメリットはありましたか。


友紀晃
2つあります。1つ目は、地域の方に認知が広がったこと。今でも前を通るたびに挨拶をしていただいたり、「次のイベントはいつですか?」と聞いてくださったりして、嬉しいですね。
もうひとつは、このイベントがきっかけで阪神高速道路さんとの廃棄看板再生プロジェクトが誕生したことですね。
廃棄看板のアップサイクルを金属加工でやっているのがすごいと思いました。看板だった頃のデザインをそのまま生かしていて、過去にあのような製品を見た経験がないです。




久美
あれはイベントが生んだご縁からでした。ファミリーを対象に、鉄の廃材に塗料をつけて巾着袋にスタンプするワークショップをしたんです。
たまたま阪神高速の方が家族連れでお見えになられていて、「廃材を活用するイベント、おもしろかったです。うちの廃棄看板でもできないでしょうか」というところから始まったよね。

友紀晃
本当にどこにご縁があるのか我々もわからない。人が集まる場を設けたからこそ生まれたプロジェクトでした。
鉄のアップサイクルブランドはSNSきっかけで誕生
田村商店は鉄の廃材や端材を再利用するブランド「TEPPEN」も興しておられます。きっかけはなんだったのでしょう。


友紀晃
きっかけはSNSです。「もっと鉄工所に関心を持ってもらいたい」と思ってInstagramを始めたんです。しかし、僕だけではすぐにアイデアが枯れてしまって。工場に転がっている鉄を撮影しただけとか、「どこか面白いの?」という内容で。
それで妻に「SNSの広報をバトンタッチしてもらえないか。助けてほしい」と弱音を吐いたんです。

久美
当時、彼は工場のリノベーションの真っ最中で、誰からも理解が得られず本当につらそうにしていたので、こちらも見ていてつらくて。私は専業主婦でしたが、子育ても落ち着いたタイミングだったし、「じゃあ、私にやらせて」と。
ただ、最初はやり方がわからず苦戦しました。当時は鉄に思い入れがなかったから。本音は「鉄か~。よくわからんなぁ」でした(苦笑)。
それでも、やろうと。


久美
お願いされたからには、それはもう仕事。真剣ですよ。「毎日やらなきゃ」って決意しました。
それで工場の人たちにポーズをとってもらったり、モノづくりの風景を撮ったりしたんですが、やっぱり投稿内容がぜんぜん面白くなくて。「もう無理や」とあきらめかけていました。
再起するきっかけがあったのですか。


久美
たまたま工場に転がっていた鉄の廃材で、冷蔵庫に貼るマグネットを作ったんです。可愛くできたから投稿したのが、アップサイクルのきっかけでした。
そしてマグネットを投稿すると「いいね!」の数が今までとぜんぜん違ったんです。コメントも増えて「これか!」と気がついた。

方向性が見えたのですね。


久美
風向きが変わった気がしました。だんだん「売ってくれませんか?」という依頼やコメントがくるようになって。「え、これを売る?」とビックリしたんです。
毎日投稿すること自体が目標だったから、儲けるだとか、ビジネスになるという考えがまったくなかったから。
ワクワクする展開ですね。


久美
それをきっかけに、日本最大級の展示会を運営するギフトショーさんから声がかかって、「出店してみませんか」「貴社のSDGsの考えを会場で表現してほしい」と。「え? 私、マグネットで便利グッズ作っただけなんですけど」と驚いて。

友紀晃
お誘いただいて展示したのですが、うちだけ異空間でした。他社さんはこの日のために1年かけてプロダクトを開発して、展示ブースを設計して挑んでおられる。それなのにうちは鉄の再利用品でしたから、見劣りします。
ところが、逆に面白がってもらえたみたいで。人がたくさん集まってきて、大きなビジネスのお話もたくさんいただいたんです。それで田村商店の事業の一つとしてTEPPENをブランドにしました。
「TEPPEN」というネーミングにはどのような想いが込められていますか。


久美
パッとひらめいたんです。アップサイクルを意味する「鉄を変える=鉄変」と、業界で何らかの頂点(てっぺん)に立ちたいという2つの思いを重ねて名付けました。
鉄の廃材や端材をアップサイクルするブランドということは、鉄の廃棄は田村商店の問題点だったのでしょうか。


友紀晃
はい。うちだけではなく、廃棄が多い業界なんです。
決まった長さで鋼材が販売されていることから、必要な分をカットすると必ず端材が出ます。それに、加工の際に少しでもズレたりミスがあったら、新品でもすべて廃棄になってしまう。「もったいない」という感覚は僕のなかでずっとありました。
田村商店が一般の方へ向けて雑貨を販売した例は過去にあったのですか。


友紀晃
ないです。お客様はゼネコン、土木関係の会社や商社のみで、BtoBでした。
そもそも、九条という街全体がそうなんです。なぜなら、BtoC事業をしている工場はほとんどなく、みんなBtoBの仕事をしている。BtoBは規模も大きく、それゆえに「本業一本でやることこそが王道」という考え方がある。だから僕らがやっていることは異質でしたし、始めは奇異な目で見られました。
TEPPENを象徴する商品は何ですか。


友紀晃
妻が考案した、ティッシュの箱を固定するための鉄製「ハッピーおもり」です。

久美
子どもを抱きながら片手でティッシュを取ると、箱ごとついてくるのがストレスだったんです。
ティッシュが取り出せる穴があいた鉄のおもりを乗せると、箱が動かない。片手で簡単にティッシュが抜き取れるだろうと考えて、職人さんに説明して作ってもらいました。


友紀晃
阪急百貨店で出店したポップアップショップで、このハッピーおもりが目の前で見る見る売れていく。さらに手の不自由な方から「この商品を待っていた!」とすごく喜ばれて。
実は出店前、僕は「こんなシンプルなもの、絶対に売れないだろう」と思っていたのですが、いかに自分が固定観念に縛られていたのかを思い知らされました。
「そっちが売れるんだ」と意外に思うことはありますね。


友紀晃
製造業の社長さんたちからもハッピーおもりを褒められたんです。「この潔いデザインはすごい。プロの職人だったら、きっと余計な要素を足してしまう」と。
妻の視点は、本業一筋でやってきた僕には絶対に出てこないものでした。業界の外から来た発想、育児をしながら感じてきた生活者としての感覚。そういうものが僕には欠けていた。
妻が加わってから、仕事も、空間も、僕自身も、色んなことが変わりましたね。
「できない」を埋め合うのではなく、「違う」を掛け合わせる。とてもいい雰囲気で進められているのですね。
TEPPENを始めて社内の雰囲気は変わりましたか。


友紀晃
変わりました。TEPPENへの理解が徐々に深まっているのを感じます。現在の従業員は20名ですが、人が定着するようになりました。採用に苦労することがなくなり、当初の目的である人材確保につながっています。
アパレルブランドのショップに製品を置いてもらったり、テレビ番組に取り上げられたりして、職人さんたちも周囲から「話題になってるな」などと言われるようになりました。反応があると、やっぱりやる気が湧くんです。

久美
いつも大型の工業製品を大量に手掛けている職人さんにとって、小ロットで変わったものを作るのは、正直煩わしいだろうと思うんです。でもTEPPENを始めてから、「それ、おもろいな。図面持ってきて」と言ってもらえるようになりました。
久美さんがTEPPENで手がけた仕事で印象に残っているものはありますか。


久美
去年1年がかりで作った、コンドーテックさんの新社屋のエントランスに設置したオブジェです。縦3メートル、横6メートルもある大作で。

6メートルはすごいですね!


久美
コンドーテックさんは建築や土木などのインフラや環境関連資材を製造している商社なんですが、会社の歴史や理念を表現する作品をうちが金属で製作したんです。
創業から未来までを描いた物語アートになっていて、形にするのがすごく難しかった。会社の顔になりますから、責任も重大で。

TEPPENの製品のなかでも最大級かと思いますが、どのように制作したのですか。


久美
まずはコンドーテックの会長、社長、社員の皆さんと何度も対話を重ね、デザインのヒントを探るところから始めました。
私はイラストソフトを触った経験がなかったので、ひたすら鉛筆で手書きをしながらデザインを作っていきました。打ち合わせのたびに描き直して、何百回描いたかわからないくらい。それだけ、このデザインには心を込めました。
完成したイラストをデータ化してもらい、CAD に落とし込んで、1mm以下の線まで表現できる精密なレーザーでステンレスを切り出していきました。
めちゃくちゃ大変だったけれど、みなさんとても喜んでくださって、私もすごく嬉しかったです。

秘訣は継続。夫婦の利点を生かしたブランド運営
お話をうかがっていますと、TEPPENは夫婦だからこそできる事業じゃないかなと感じました。


友紀晃
僕もそう思います。ただ、TEPPENを起ち上げた当初は「夫婦で事業はするな」と周囲から大反対されましたね。うまくいくはずがない、事業も夫婦仲も壊れるぞって(笑)。

久美
でも私たち、出会ってから20年、1度も喧嘩した経験がないんですよ(笑)。TEPPENを始めてから、さらに仲がよくなったくらいで。
大阪・関西万博に出展したときも、委員の偉い方に「TEPPENは夫婦力のブランドですね。これからもそうしなさい」と言われました。「夫婦力=ラブパワー・テクノロジー」だって。
ラブパワー・テクノロジー! 愛の力は偉大ですね。夫婦でブランドを運営する秘訣はありますか。


久美
秘訣は「継続」です。夫から頼まれたInstagramも、やると決めたら毎日更新する。しんどい日ももちろんあります。でも、「今日はしんどいからやめた」が続いてしまったら、見てくれる人の信頼を失ってしまう。続けているから、次の仕事につながっていくんだと思っています。
それは夫婦を継続する秘訣そのものでもありますね。


久美
あと、夫婦でとにかく「楽しそうに仕事をすること」。実際にめっちゃ楽しいんです。
TEPPEN WONDER LANDには、小さなお子さまや学生さんもよく来てくれます。そんなみなさんが「なんか楽しそう」「町工場っておもしろいんや」と少しでも思ってくれたら、それが地域と社会への貢献につながると思うんです。


友紀晃
鉄や製造業とは全く関係のない方たちが、この場所をきっかけに九条に来てくれるようになった。そして、「九条ってこんな街やったんや」って知ってもらえる。それだけで、生まれ育った街への恩返しになっているかなと思っています。
お話をうかがい、コミュニティの場所を開く重要性、ものだけではなく価値観もアップサイクルする大切さ、そして夫婦という共創のかたちについて、たくさんの学びを得ました。
「鉄は熱いうちに打て」。さっそく今日から仕事に活かします。


【編集後記】
本当に本当に素敵なご夫婦でした!久美さんはどんなことに対しても「こんな風にしたらおもろいかも!」と一緒に寄り添って考えてくださる方。お話するだけで不思議と前向きになってしまう魔法をかけてくれるような方でした。そんな久美さんを全力で信頼し、任せながら、また異なる立場から会社を動かしていく友紀晃さん。お互いに大きなラブと深いリスペクトを持ちながら、物事を成していく関係性に、私も将来そんな夫婦関係を築けたら素敵だなと、ついにやにやしてしまいました。「これからは”人間力”で仕事する時代」とよく言いますが、”人間力”とはまさにこういうことか!と気づかさる取材となりました。
(株式会社オカムラ WORK MILL 編集員 / 共創ディレクター 宮野 玖瑠実)
2026年4月取材
取材・執筆=吉村智樹
撮影=木村華子
編集=桒田 萌/ノオト


