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10年だけでなく、その先も。「偶然の出会い」を醸成させて、持続できるまちを育んできた軌跡(HAGISO・宮崎晃吉さん)

カフェやギャラリー、ホテルのレセプション、整体・アロマのサロン——。東京都台東区・谷中にある築70年の小さな木造アパートを改修した「HAGISO(ハギソウ)」は、いくつもの機能が凝縮された“最小文化複合施設”です。

HAGISOの設計・運営を担当するのが建築家の宮崎晃吉さん。宮崎さんは、まちをひとつの宿に見立てて、まち全体で旅行者をもてなす仕組み「まちやど」を考案。

そのために、谷中に宿泊棟「まちやど hanare」や定食屋、教室事業など計7つの拠点を次々と展開し、ここでしかできない体験を提供しています。

HAGISOをオープンしてから10年余り。谷中エリアでの場づくりの歩み、そして宮崎さんの考える「これからの時代の場づくり」について、伺いました。

宮崎晃吉(みやざき・みつよし)
群馬県前橋市生まれ。2008年、東京藝術大学大学院修士課程修了後、磯崎新アトリエに勤務。2011年に独立し、建築設計やプロデュースを行うかたわら、2013年より自社事業として東京・谷中を中心エリアとした築古のアパートの設計・運営や、住宅をリノベーションした飲食、宿泊事業を展開している。hanareで2018年グッドデザイン賞金賞受賞/ファイナリスト選出など。

築70年の小さな木造アパートから生まれた「最小文化複合施設」

「HAGISO」の前身は、東京藝術大学(以下、芸大)の学生がアトリエ兼シェアハウスとして使っていた木造2階建ての賃貸アパート「萩荘」だったそうですね。

宮崎

はい。もともと、萩荘は誰も住んでいなかった空き家で、2004年から建築科の学生連中が大家さんに交渉して住み始めたんです。芸大に通っていた僕も2006年頃に加わり、建築事務所へ就職した後も住み続けていました。

居心地がよかったんですね。

宮崎

そうですね。仕事では、海外の大型プロジェクトを担当して、帰国したら萩荘に泊まる生活でした。

そんなある日、近所の銭湯が突然閉店して。「海外で建築の仕事をしながらも、身近にある昔から続くまち並みすら守れなかった」と無力感を覚えたんです

その後、2011年3月11日に東日本大震災が起き、「身近な場所に関わる、手応えのある仕事がしたい」と、その月に建築事務所を辞めました。

思い切った決断ですね。そのあとは、どんな活動を?

宮崎

東北の被災地で学生たちとボランティアをしたあと、状況が落ち着いたタイミングで萩荘に戻ってきました。

すると、大きな地震を経験した大家さんから、「老朽化している萩荘を解体して、駐車場にしたい」と言われて。

そのとき、どう感じましたか?

宮崎

しょうがないとは思いつつ、記憶から萩荘の思い出が消えていくのは寂しいと感じました。

そこで、萩荘が好きだった連中と「最後にお葬式をやらせてください」と大家さんにお願いして、萩荘にお別れを伝えるセレモニー「ハギエンナーレ」を開催したんです。

すると、約3週間で、別れを惜しむ人たちが約1500人も来てくれました。

2012年2月25日から3月18日にかけて開催された「ハギエンナーレ2012」。萩荘に愛着のある総勢20名以上の作家によって、萩荘全体を使った展示が行われた。(提供写真)
ハギエンナーレの様子(提供写真)

すごい反響ですね……!

宮崎

その様子を見ていた大家さんが「壊すのはもったいないかもしれない」と思い直してくれたみたいで。一転して、萩荘は改修され生まれ変わることになったんです。

なるほど、そういった経緯があったんですね。なぜHAGISOの設計だけでなく、運営にも携わることに?

宮崎

大家さんと一緒にリスクを背負うためです。改修後の事業が決まっていなかった萩荘は、その後は誰に貸すのか、どういう使い方がされるのか、それで利益が出るのかもわからない状況でした。

でも、それでは大家さんが安心して改修できない。そこで、僕らも事業主になるリスクを負って、改修に携わることにしました。

宮崎

そして2013年3月、僕と妻の顧彬彬(コ・ピンピン。以下、ピンピン)が事業主となって、生まれ変わったHAGISOの運営をスタートさせたんです。

まち全体をホテルに見立てて、「谷中でしかできないこと」を知ってもらう

企画設計の段階で、「HAGISO」をどんな場所にしようと考えていましたか?

宮崎

目指したのは、日常の延長線上で文化を育める、パブリックな空間最小文化施設を生み出すことです。

文化を育む場所といえば、美術館や劇場など行政が用意した巨大な公共施設を思い浮かべますよね。

そうした大きな施設とは違って、日常の中で自然に文化が生まれ、近所の人が気軽に文化を楽しめる場をデザインしたいと考えました。

1階には、カフェとなだらかに連なるようにギャラリーが。その時期によって、さまざまな展示が行われている。2階には、ホテルのレセプションと整体・アロマのサロンを置き、ひとつの古民家という「最小」の文化施設でありながら、さまざまな機能を持つ場所にした

2013年の「HAGISO」の完成後、2015年には宿泊棟「hanare」をオープンさせています。宿泊棟をつくることにした経緯を教えてください。

宮崎

まずは最小文化施設をつくることで、場のポテンシャルを最大限に引き出せたと思っているんですね。

次に“この場所だからできること”を考えたとき、「このまちに、どんなポテンシャルがあるのか」が気になってきて。

古い街並みがどんどん失われていく谷中に対して、自分たちが何かできないかと考えた結果、「まちやど」という仕組みを思いつきました。

「まちやど」は、まち全体をホテルの施設として活用するプロジェクト。受付はHAGISO、お風呂は近所の銭湯、晩御飯はまちのレストラン、お土産選びは商店街、文化体験は稽古教室でと、まちに暮らすような滞在を楽しめる

「まちやど」を思いついた経緯が気になります。

宮崎

hanareができる前、僕とピンピンはHAGISOへの初期投資のために1千万円くらい借金をしていて、部屋を借りる余裕がなくて……。風呂なしで、キッチンも業務用で使えないHAGISOの2階で寝泊まりしていました。

だから普段は銭湯に通い、近所のお店で食事を済ませ、コンビニを冷蔵庫代わりに使う生活をしていたんです。

そうせざるを得なかったわけですね。

宮崎

ただ、そういう生活を送るうちに、「毎日、銭湯で広いお風呂に入れて、おいしいものも食べられる。“まち全体が自分たちの家”だと思えば、むしろよっぽど豊かな暮らしを送れているんじゃないか」と気づきました。

なるほど。見方を変えると、まち全体が宿になっていますね。

宮崎

はい。まちぐるみで宿泊客をもてなし、「谷中でしか体験できないこと」を知ってもらえば、このまちの価値向上につながるのではないか、と思い至りました。

そのための拠点として、「hanare」を思いついたと。

宮崎

そうです。まずは宿泊棟をつくろうと考え、近くにちょうどいい空き家を見つけたので、その大家さんに僕らの構想を話したところ、賛同していただけました。

大家さんと一緒に費用を出して改装して、2015年にオープンしたのが「hanare」なんです。

HAGISOの2階にあるhanareのレセプション

その後も谷中エリアで、定食屋「食の郵便屋さんTAYORI」や教室事業「まちの教室 KLASS」などの設計・運営を担当されていますよね。

宮崎

「hanare」のオープン後、地域との関係性が広がり、地主さんなどから物件を紹介していただけるようになった結果です。

僕らのやりたいことと物件を掛け合わせ、少しずつ拠点を増やしていき、約10年間でHAGISOから徒歩圏内に7つの拠点を設けることができました。

HAGISOやhanareから歩いて5分ほどの場所にある「TAYORI」は、「食の郵便屋さん」を謳った定食店

「偶然の出会い」のある個性的なまちを取り戻す

谷中にあるすべての拠点の事業主となってリスクを負うのは大変なことだと想像します。

そこまでして、事業を続けているモチベーションが知りたいです。

宮崎

ここにしかない場所で、僕らにしかできないことをやりたいからですね。そして、つまらないものを、もっとワクワクするものにしたいと思っています。

「つまらないもの」とは?

宮崎

“予定調和なものが交換される場”といえば、イメージしてもらいやすいでしょう。

昔は地域ごとに個性的な施設が多く、まちにも個性がありました。

しかし今では、郊外化した地方都市にショッピングモールが並ぶように、どこも似たような街並みになり、地域の独自性が失われています。

たしかに、そうですね。

宮崎

すると、家とショッピングモールを往復するような生活になって、消費しかすることがなくなるはずです。

お金を払う場でないと人と触れ合えず、そこで得られるサービスは標準化され、予定調和なものが交換されます。

たとえば、買い物に行くと、「お金」と「品物」だけを交換するイメージですね。

宮崎

そうです。その状況が僕にとっては非常に違和感があって、「その地域固有の体験を提供できるまちに立ち戻らなきゃいけない」という想いが染み付いていました。

そこで、谷中にしかないものに、僕らにしかできないことを掛け合わせて、ここでしか体験できない「偶然の出会い」を生み出したいと思っています。

そういう場が、世の中にもっと増えてほしいという想いが原動力になっているんです。

定食屋「TAYORI」では、利用者がお店で仕入れている食材の生産者と「手紙」のやりとりができる。「予定調和の交換」にとどまらない工夫が行われている

「ここでしか体験できない」となれば、遠くから谷中に訪れる人も増えそうです。

宮崎

ですよね。だから飲食店を運営するにしても、「お金」と「食事」を交換するだけの場ではなく、「偶然の出会い」が生まれる場づくりがテーマです。

たとえば、HAGISOの1階にあるカフェ「HAGI CAFE」では、カフェとギャラリーを併設しています。

すると、ケーキを食べに来た近所のおばあちゃんが、ギャラリーで展示中のアート作品をつくった若者と偶然出会い、「この作品は何?」という会話が生まれることもあるんです。

HAGISOの1階には、ギャラリーの隣にカフェがある

カフェだけのお店では生まれない会話ですね。

宮崎

ほかにも、「パフォーマンスカフェ」をたまに開催しています。

パフォーマンスカフェとは何でしょうか?

宮崎

200〜300円で提供される3分間のパフォーマンスを注文すると、上階からパフォーマーが現れて、パフォーマンスを披露する取り組みです。

カフェにいる誰かがパフォーマンスを注文すると、その場でただコーヒーを飲みに来たほかのお客さんも思いがけないタイミングでパフォーマンスを楽しむ機会と出会うことがあります。

いきなりパフォーマンスが始まったら驚きそうです……!

宮崎

思いがけない出会いを楽しんでくれる人もいて、その偶然が人生のトリガーになるかもしれないと期待しているんです。

パフォーマンスカフェの様子(提供写真)

あらゆる立場から、谷中に対してできることを考える

これまでに近隣住民の理解を得る難しさを感じたことはありますか?

宮崎

この10年で実感しましたが、近所の方に理解していただくのには、やはり時間が必要でしたね。

HAGISOを始めた頃は、「最低5年は続けないと、谷中の人たちに来てもらえないよ」と言われたこともあるくらいで。

その状況から理解してくれる人が増えたのは、なぜでしょうか?

宮崎

谷中に対してできることを、いろんな立場から考えていたからだと思います。

今の谷中は観光地化が進み、新しい資本や人が集まる一方、地元の人たちが住みづらくなるかもしれない懸念があります。

地元の人にとってはジレンマですね。

宮崎

そういった地元の人たちとも対話できるように、商売目線だけでなく、暮らし手としての目線を持つことも心がけています。

僕らは「観光客が多いから、土産物店を増やそう」のように、観光目的のお客さんのニーズにとにかく応えようとまちを消費するような、“どこにでもある街”をつくることに加担したくはないんです。

どこにでもあるとなれば、いずれ飽きられてしまいそうなイメージです。

宮崎

それは我慢なりません。消費されず、地元の人にとっても「いい街」であり続けるために、暮らし手としての目線も持ち、大家さんたちと一蓮托生になって谷中での事業を続けてきました。

それを約10年間やり続けた結果、ようやく認めてくれる人が増えてきたように感じます。

それだけ多くの時間が必要だったんですね。

宮崎

もちろん、いまだに理解されないこともあるので、僕らの考えが伝わるように、HAGISOの10年間をまとめた書籍『最小文化複合施設』をつくりました。

書籍『最小文化複合施設』。編集は真鶴出版、デザインは萩荘でかつて生活をともにした田中裕亮さん(グラフィックデザイナー)が担当した

380ページ超えの大作ですが、いつ頃から執筆を?

宮崎

約6年前です。途中から真鶴出版の川口夫妻に声をかけ、そこから約2年半かけて完成させました。ピンピンとの共著で、コロナ禍で営業を自粛する必要に迫られ、倒産寸前だった話など、すべて赤裸々に書いています。

何かに挑戦しようと思っている人に、「なんとかなるかもしれない」と感じてもらえたら嬉しいですね。

ひとつのまちを深掘りすることで持続させる

変化の多い10年だったかと思いますが、そのなかで見つけた共創を続けるヒントを教えてください。

宮崎

スケール(規模を拡大)しないことだと思います。

これまでの資本主義の考え方では、「モノやお金を増やすことが豊かである」と考えて、スケールすることを追求してきましたよね。

でも、地球の資源などは有限で、いつまでもスケールし続けることができるとは思えないんです。

確かに、今の時代にフィットしているとは言えませんね。

宮崎

たとえ一部の人だけがスケールできたとしても、それによって犠牲になった人たちの不満が溜まっていけば、豊かな社会とはいえないでしょう。

そうならないために、特定の誰かがあるエリアの主導権を握るのではなく、それぞれの場所で、それぞれの人が小さく稼ぎながら、じわじわと活動を続けていくことが大事なのかなと。

だから、みんなで豊かになる方法のひとつとして、あえて僕らはスケールしないことを続けていこうと考えています。

スケールしないために、自社事業では今後どのようなことを考えていますか。

宮崎

基本的には、ひとつのまちを縦に深掘りしていきたいです。

今、僕らがしている谷中を中心とした複数業態の運営・場づくりを、ほかの地域に広げて展開していくことには、あまり興味がなくて。

地域を超えてスケールすることにつながるからですね。

宮崎

そうです。これからも、「どう関われば、ある地域の新たな可能性を切り開けるか」を追究したいと思っています。

その結果、“そこでしか得られない体験”を求めて訪れる人が増えれば、持続可能な地域が増えていくはずです。

そのためにも、ここにしかない場所で、僕らにしかできないことで生まれる“偶然”を重ねていきたいと思っています。

前田 英里
前田 英里

【編集後記】
「このまちにしかないもの」と、「自分たちにしかできないこと」。表現を変えながら、宮崎さんが幾度も口にされていた言葉です。

どこへ行こうと同じ品物が買え、同じ体験ができることにも一つの良さはあるでしょう。しかしながら、それでは「どこでもいい」ことになってしまいます。均質化した無名の場所など本当は無いはずで、働き・暮らし・遊ぶ人たちの日常があり、一人ひとりが替えのきかない人生を送っています。そうした「このまちにしかないもの」と、宮崎さんらの「自分たちにしかできないこと」が重なり合って、HAGISOという場で「偶然の出会い」として立ち現れてくる。当たり前すぎて見過ごしがちなところにある価値に、ふと気づかされた思いがしています。

2024年11月取材

取材・執筆=流石香織
写真=栃久保誠
編集=桒田萌/ノオト