「能力」は存在しない? 誰もが承認されるこれからの組織(組織開発コンサルタント・勅使川原真衣さん)
「能力」と聞いて、何を思い浮かべますか?
同じ人間でも、属する組織が変わることで「仕事ができない」と言われたり「優秀な人だ」と言われたり、評価がガラリと変わることがあります。それは、組織が組織の求める能力に重きを置く「能力主義」だからかもしれません。
では、「能力」だけに軸を置かず、チームや場づくりにおいて1人ひとりの持ち味を活かすにはどうすればいいのでしょうか。能力以外の指標でより良い仕事を生みし、関係性を作ることはできるのでしょうか。
能力主義について問題を提起し、個人の特性にスポットライトを当てる組織開発専門家の勅使川原真衣さんに、お話を伺います。
勅使川原 真衣(てしがわら・まい)
1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て、2017年に組織開発コンサルタントとして独立。二児の母。2020年から乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社)、『職場で傷つく ―リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)、編著に『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』(東洋館出版社)がある。
「能力」は目に見えない
今日は「能力」についてお話を伺います。そもそも「能力」とはどんなものでしょうか。
勅使川原
「能力」は世の中で当たり前のように使われている言葉ですね。いきなりですが、「能力」って目で見たことありますか?
うーん……。
勅使川原
「能力」は、個々の身体のなかに確固として存在する臓器のような、はっきりとしたものではないんです。だから、見たことのある人はいないし、本当の意味で実態を測ることもできません。
でも、「能力」があるとされている人は入社試験や昇進などさまざまな場面で選ばれやすい。
言い換えると、「能力」とは選抜のために作られた概念だともいえます。
作られた概念?
勅使川原
日本では、かつて身分制度がありました。限られた資源を配分するときに、身分を根拠にしていたわけです。
でも、「生まれが違うから配分が違う」という強引な制度には当然、不満が生まれます。そこで、「能力主義」という配分原理が作られてきたのです。
「能力」の高い人には、給料などのかたちで多くの資源が配分されます。一方で、「能力」が低いとされる人は「努力が足りない」と。
現代では当たり前すぎてわかりにくいですが、確かにいつも「能力」を求められている気がします。
勅使川原
「能力」を求められるのは、大人になってからの職場だけに限りません。学校も「能力」を問われる場所ですよね。「学力」は典型的ですし、他にも「生きる力」や「非認知能力」という表現も聞かれるようになりました。
教育基本法の第一章第一条「教育の目的」には、「教育は、人格の完成を目指し」(※)と書かれています。
【教育基本法】
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
勅使川原
でも、能力を伸ばしていった先で「人格が完成」した人とは、どんな人なのでしょうか?
確かに、人格の完成とは……?
勅使川原
私は職場や学校の生きづらさについて探究してきたなかで、「能力」は危なっかしい概念だと考えているんです。
豊かな暮らしをしたい人はこぞって、学校でも職場でも、少しでも序列を上げるために競うようにして頑張ることになります。
そうですね。
勅使川原
「自助」の前提でがんばり続けてくれる国民が増えれば、統治する側にとってこんなに都合のいいことはありません。
出来の良い人に多くの資源を渡して、「出来が悪い人はしょうがないよね」と社会が合意してしまっている状態。これが「能力主義」の社会です。
「能力」は文脈依存的で、揺れ動いている
改めて「能力」「能力主義」にはどんな特徴があるのでしょうか?
勅使川原
まず、文脈依存的であることがポイントです。
文脈依存的?
勅使川原
人間は、一緒にいる相手によってあり方が変わりますよね。
たとえば、「この人が会議にいると急に喋れなくなる」といったこともあれば、「あの子と話しているときの自分は優しくなれる」ということもあります。
いわゆる「能力」というその人らしさは、このように状況によって揺れ動いていくもの。そういう状態を文脈依存的と読んでいます。実際には存在しないのに、存在するものとして作り出す、いわゆる仮構的な、あいまいなものあるという言い方もできます。
なるほど。
勅使川原
整理すると、能力主義の3点セットは、断定・他者比較・序列化です。
たとえば、学校では一元的な物差しを勝手に人に対して当てて、それに合わない子どもを「やる気のない生徒だ」などと断定してしまう。
そして、その物差しを基準に他者と比較し、序列することを通して、それぞれの子どもの居場所をつくっていきます。
結果的に、「やる気のない生徒だ」と断定された子どもは、居場所のない状態にしてしまいます。
でも、「“非認知能力”が低いから、あなたは偉くなれないですね」と評価されても、あまり納得できないですよね。
職場でもそのようなことが起きていますよね。
勅使川原
はい。もはや「能力」は商業化しているともいえます。
なぜなら「人格の完成」は永遠に実現しません。一生得られないものだからこそ、良い商売になるんです。ダイエットや英語学習とも似たコンプレックス産業と言っても言い過ぎではないでしょう。
「〇〇する力」といったタイトルの本が、無限とも言えるほどあらゆるテーマで量産されていますよね。
ビジネスではどうですか?
勅使川原
たとえば、私自身も在籍していたことがある人材開発コンサルティング業界も、能力主義の商業化に加担した立場の一つだと思っているんです。
「あなたには見えないけれども、専門家の私たちは能力が見えるんです。なぜなら最新のテクノロジーがあるからです」というロジックで、売り物を作ることができますから。
「私たちコンサルタントは能力評価が個人の主観に偏らないよう、外部の専門家と協力し、客観的なデータに基づいて評価を行います」と……。
いろんな「能力」を測られてきた記憶が……。
勅使川原
私たちは、教育のなかでも職場でも「能力」を向上させるよう求められます。そして、いつの間にか「能力」を内面化していく。
だから、何か悪いことが起きたときに「“能力”がない自分のせいだ」と思ってしまう人が増えているのだと考えます。
多くの人がそうやって心が苦しくなる経験をしてきたと思います。
勅使川原
本当は構造の問題なのにもかかわらず、「自分のせいだ」と個人の内面をどんどん深掘りするほど、精神や心理の領域にも侵入してきます。
「発達障害」や「HSP(Highly Sensitive Person)」などもその例です。その概念を否定するわけではないのですが、その名前を利用して問題を個人化すると、当事者にとっては終わりの見えない、自分だけの問題になってしまいます。
まずは存在の承認から始めて
では、職場で「能力」以外にどのような物差しで個人を判断することができるのでしょうか?
勅使川原
まず大事なのは、「能力」の高い/低いで測るものではなく、存在そのものに価値があるという前提ですね。つまり存在の承認です。
客観的に測られるデータではなくて、個人そのものを受け止めてもらえる環境が大切だと思います。
私はいま、組織開発の仕事をしていますが、組織の揉めごとや悩みごととして相談される内容の9割ほどが「承認されていない」ことではないかと感じます。
「能力」の世界では、存在の承認を得る機会は少ないですよね。特に「能力が低い」と評価された人はなおさら……。
勅使川原
たとえば、職場でお互いの存在を承認し合うワークショップをするだけでも、「能力主義」の価値観から少し降りることができます。
それぞれが大事にしていることを開示し合う。「みんなは気づいていないかもしれないけど、実はこの人はこういうことをずっと考えてきて、こそっとやってあげていたので、拍手してください」と他者を褒め合う。
私が組織開発を支援するときには、このような承認のワークショップから入ることもあります。
その上で、「能力」以外のどのような点が大切なのでしょうか?
勅使川原
「個人の能力」から「関係性」へと焦点をずらしていくことが大事だと思います。
関係性や組み合わせの良し悪しこそあれど、個に良し悪しはないのです。
なるほど。
勅使川原
小さなブロックを組み合わせて作られた、大きな海賊船を想像してみてください。それを完成させるには、1つひとつのブロックが多様な色や形や大きさでなければいけないですよね。
ブロック1つひとつに、能力も優秀さもありません。特徴や形の違うブロックを組み合わせることで、大きな海賊船を作ることができるのです。
確かに、違った機能があるからこそ、支え合うことができますね。
勅使川原
車の機能にも似ています。車を見て「アクセルは優れていて、ブレーキは劣っている」なんて思いませんよね。
アクセルだけではなくて、ブレーキがないと止まれない。ハンドルも必要だし、ハンドルを動かした方向の通りに動いてくれるタイヤも必要なわけです。
同じように、人間も組織における機能や持ち味がそれぞれ異なるだけで、画一的な指標で「優れている」「劣っている」とは言えないはずです。
しかし、人間の「能力主義」の世界では「アクセルって優秀だよね」と言い切っているぐらい、間抜けなことが起きているのではないかと思うんです。
「誰と何をやるか」が大切
大事なのは組み合わせなんですね。実例があったら教えてください。
勅使川原
私の知っている人に、リサーチの仕事でミスを頻発して低い評価をつけられてしまった人がいました。
でも実は、彼はもともとコンビニチェーンのスーパーバイザー職で、店舗の管理をする仕事をしていました。そこでは、「日本一おでんを売る男」として有名だったらしいんですよ。
たまたま組織開発に理解のある部長に、リサーチの仕事のミスの話が届き、「営業をやってみたらいいのでは」と提案されジョブチェンジしました。すると、花開いたんです。
なんと……!
勅使川原
リサーチの仕事ではミスばかりでしたが、人のアイデアを引き出すような楽観性やおもしろさはあった人らしいんです。
コンビニ時代におでん日本一になれたのは、能力的に賢いからではありません。彼がユーモラスで、周囲との仲間意識を醸成し、その関係性のなかで組織の成果を引き出せたからなのです。ちなみに、おでんを売るコツは、最初はパートのおばちゃんが発見したそうですよ。
この例からもわかる通り、「誰と何をやるか」次第なんですよね。
「能力」や「能力主義」に、これから社会はどのように向き合っていけるでしょうか?
勅使川原
私のはじめての書籍『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)を出版したとき、障害者の就労支援をしている方々がたくさん読んでくれました。それから、私自身も多くの施設を訪問させてもらいました。
そこで「勅使川原さんが言っている“組織開発”を、私たちはずっと前からやっています」と言われたんですね。
つまり、人をジャッジするためにできることやできないことを見たり、良い性格・悪い性格を判断したりしない、と。 私がやりたいのはまさにこれで、組み合わせを前提として、その人や組織を支援するためにアセスメント(評価・分析)をしていくことなんです。
組み合わせの中で、個人がどのように資質を発揮できるかを判断するんですね。
勅使川原
営利企業では、「お金を生み出す人材なのかどうか」という観点で、個人のジャッジのために「能力」が使用されてきました。
でも「能力主義」の社会のあり方は、靴擦れをしているまま同じ靴を履き続けている状態です。おそらく、多くの人が「能力」に惑わされて傷ついています。そのことに、特に人を評価する立場の人に気づいてほしいと思います。
「“能力主義”以外のあり方があってもいいいのではないか」「みんなが存在を肯定されて活かされる道はどこだろうか」「今まで自分や他者を拙速にジャッジしすぎていたのではないか」と、内省からはじめてみてほしいです。
【編集後記】
「能力って、そもそも何だろう?」勅使川原さんが問いかける本記事では、私たちが当たり前のように取り扱う「能力」というものが、実は文脈や環境に左右されるものであることが分かります。そして、それが市場価値として「商業化」されている現代社会に対して「能力」をどのように捉え直すべきかを考えさせられました。。。
同時に、記事の中で強調される「関係性」ですが、能力とは単独で完結するものではなく、人と人とのつながりの中で形を変え、真価を発揮するものだという視点が、これからの組織づくりや働き方のヒントとなると思いました。
2024年11月取材
取材・執筆=遠藤光太
写真=品田裕美
編集=桒田萌/ノオト