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第11話「キーホルダー」から「カードホルダー」へ

働く環境、働き方の調査・研究を30年以上続ける業界のレジェンド、鯨井による連載コラムです。働く場や働き方に関するテーマを毎月取り上げ、『「〇〇」から「××」へ』という移り変わりと未来予想の視点から読み解きます。

昔“ジャラジャラ”、今は“ピピッ ”

以前私たちは、家の鍵と一緒に事務所の鍵や机、キャビネットの鍵をキーホルダーに束ねて持ち歩いていました。それが今では様変わり。事務所の出入り口は電子錠になりICカードで開錠・施錠するようになっていますし、キャビネットも“ピピッ”で開け閉めしている人が増えてきています。かつては観光地のお土産の定番だったキーホルダー(人からもらっても嬉しがる人はあまりいないように思うけど、いまだにお土産として存在しているのが不思議です)。対してカードホルダーは、私が知らないだけかもしれませんが、土産屋にあまり無いような…。でも日常的には、キーホルダーはカードホルダーに役目を引き継いでいる感があります。今では駅でも会社でもコンビニでも、そこらじゅうで“ピピッ”。時代は変わるものですね。私の自宅は従来の鍵なのでキーホルダーを持っていますが(それでも改めて考えると束ねている鍵の数はずいぶんと少なくなっています)、皆さんの中には既にキーホルダーを使っていない人がおられるかもしれませんね…。

さて今回は、変わってきた鍵の話を膨らませて、オフィスにおけるセキュリティ対策・安全対策について話をしてみます。企業が継続的に発展していくためには、事業を遂行するのに必要な経営資産をしっかりと保有し、この資産をさまざまなリスクから守る必要があります。企業が保護すべき資産といえば、「ヒト・モノ・カネ・情報」。この中で最も需要なのは、もちろん「ヒト」ですよね。そこでまず「ヒト」の話を始めたいと思います。

 ー鯨井康志(くじらい・やすし)
オフィスにかかわるすべての人を幸せにするために、はたらく環境のあり方はいかにあるべきかを研究し、それを構築するための方法論やツールを開発する業務に従事。オフィスというきわめて学際的な対象を扱うために、常に広範囲な知見を積極的に獲得するよう30年以上努めている。主な著書は『オフィス事典』、『オフィス環境プランニング総覧』、『経営革新とオフィス環境』、『オフィス進化論』など。

人命を守れ!

オフィスでヒトに危害を加える最大のリスクは地震です。昔から怖いものは「地震・雷・火事・オヤジ」と相場が決まっていますが、オフィスで働く人にとって落雷の心配はほぼ無いし、オヤジはもはやそんなに怖い存在ではない。火事は可能性はありますが、一般的なオフィスでは火を使わないので出火原因そのものがありません。結局一番怖いのは地震です。

地震国である日本は、建築物を地震から守るために多くの基準をつくり法律で規定してきた歴史を持っています。大きな地震があって甚大な被害が出ると法整備が進む。いつも後追いではありますが、そのつど対策が講じられてきたのです。例えば、関東大震災の翌年に初めて耐震規定というものが法律に書き込まれましたし、福井地震の被害を経験して1950年に現在の建築基準法が公布されています。1978年の宮城県沖地震のときには耐震基準が見直され、1995年の阪神・淡路大地震をきっかけに耐震改修の促進が図られるようになりました。我が国の地震対策は、大きな地震が起き不幸にして発生してしまった被害から学ぶことで少しずつ強化されてきたのです。

そして、記憶に新しい東日本大地震で私たちが体験したリスクのひとつが長周期地震動でした。これまでは直下型の地震がもたらす被害を中心に対策が講じられてきたのですが、今回の地震で高層階にあるオフィスで働く人たちが怖い思いをしたのは、長周期地震動による物品の移動がもたらす危害でした。特に重量がありキャスターのついている物品(コピー機や大型のシュレッダー、種類の詰まった移動式のワゴンなど)は横滑りすると凶器になりかねません。地震が起きたら机の下に逃げ込めと私たちは子供の頃から教わってきましたが、その机自体が移動してしまう可能性があるのです。また、机の上で使っていたノートパソコンが飛んでくる恐れだってあります。オフィス内の地震対策は法律によって規定されてはいませんが、各自治体などがリスク軽減対策をまとめて公開していますので、それを見て日頃から地震に備えておくことが望まれます。

これは東日本大地震の後で外資系某証券会社の方から聞いた話ですが、地震直後の停電でライバル会社のサーバーはダウンして業務が数日ストップしたのに、自社では停電対策として用意していた自家発電機が役立って操業し続けることができた。その間の売上額(利益だったかもしれない)の差は数十億円だった、というのです。地震への備えはまったくもって欠かせませんね。

と思わず勢いで書いてしまいましたが、これは人命を守る話ではなくて、次に触れるつもりだった「モノ・カネ・情報」の話でした。それではそちらの話題に移りたいと思います。

モノ・カネ・情報を守れ!

生産現場と違ってオフィスに配備されている「モノ」の中でそんなに重要なものなんてほとんど無いのではないでしょうか。それこそ地震が起きて何が何でも持ち出さなければならない「モノ」はそうそうないでしょう。また、「カネ」も昨今では大金を身近に置いておくことが昔に比べれば減っているように思われます。ということで、「モノ・カネ・情報」と言っても、この中で真剣に守らなければならないのは「情報」ということになりそうです。情報の価値は改めて言うまでもなく、どんどん高まっています。特に勢いを増してているIT業界やソフトウェア産業などでは、情報が商品そのものなのです。これを守らずして何を守るのかというところでしょう。

IT化の進展は、大きな恩恵を人々にもたらしましたが、その一方で不正アクセスや情報漏えいなど情報資産を脅かす負の要素ももたらしています。そうした中2002年からISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)の本格運用が開始されました。企業が情報を適切に管理し、確保・維持できているかを外部に示すことが事業の運営に影響を及ぼすようになっていったのです。2006年にNOPA(ニューオフィス推進協会)が始めた「オフィスセキュリティマーク認定制度」は、オフィス内の経営資産が適切に保護されている組織を認証する制度ですが、対象とする資産である「ヒト・モノ・カネ・情報」の中で最も重きを置いているが「情報」であるのは、こうした背景があるからだと思われます。

この制度の中でNOPAは、オフィスという空間の中にある情報資産を物理的に保護するに有効で実効性の高い対策を示してしています。その手順は、まず保有している情報の棚卸しをして重要度別に分類する。一方でオフィス空間の中をセキュリティの厳重さ別にゾーン分けをする。そして、資産を重要度に応じて適したセキュリティレベルの空間に配置して管理する、というものです。情報へのアクセス管理と空間への入退室管理をリンクさせてセキュリティを確保することになるわけです。

近年、空間への入室制限を厳しく行う企業が増えています。そこに保管されている情報(この場合は情報に関わっているヒトも含めて)にアクセスする資格を持たない人は、社外の人間は言うまでもありませんが、同じ会社の人間であっても中に入れないようにしているオフィスをよく見かけます。情報セキュリティは確保できていて良いのですが、これを過度にやりすぎると情報の流れを損なうことになり、事業が円滑に進まない事態に陥る恐れがあります。“なにごとも過ぎたるは及ばざるが如し”ですね。

安全≠安心?

オフィスビルのセキュリティゲートで“ピピッ”、オフィスの入り口で“ピピッ”、他の部局を訪れて“ピピッ”。駅やバス、タクシーでも、コンビニでも“ピピッ”。私たちは一日に何回“ピピッ”ってしているのでしょう。そのうちに我が家から徒歩1分のところにある銭湯も“ピピッ”になるかもしれません。そうなると番台のおばさんは職を失うのかしら…。ICカードによる本人認証はいつまで存続するのだろう。“ピピッ”が嫌なわけでもありませんが、将来的にはいちいちカードをかざすことなく、もっとスマートにできるようになるに違いありません。

今外部の方を自分のオフィスに招くと、その方はカードを持っていないので、ビルへの入館やオフィスに入るときにかなり手を煩わせることになります。事前に発行した暗証番号を入力させたり、入館証の発行を頼まなければならなかったり、と招いた方にそんな手間をかけさせるのは考えてみれば失敬な話です。きっと数年後には、顔認証システムが街のどこに行っても完備されていて、招いた人は何もしなくても中に入ることができ、招かざる人は入り口でシャットアウトされるようになるのでしょう。国民全員の顔写真と個人番号が登録されていて、本人かどうかが判別されるのです。良い人はフリーパスだけど、悪い人はけっして中に入れない。とても便利で安全な時代が到来するのです。

前半の地震の話に戻りますが、私が倒壊した建物の下に生き埋めになったとしても、本人の情報が今いるところも含めてきっちり管理されている世の中になれば、グーグルマップを開くだけで、生き埋め現場におなじみの位置情報マークが表示されるようになるのでしょう。とても便利で安全な時代が到来するのです。

だけどそのときには、一人ひとりが常に社会から監視され管理されていることになるわけです。それってすごく窮屈だし、居心地が悪い。頭では安全だと分かっていても、どこか別の意味で安心できないようにも思われます。情報セキュリティを守るためには、相手のことを多少疑ってかかる気持ちを持つ必要があったり、自分も疑いの目を向けられているということを容認しなければならないとか、越えなければならない難しい問題があるように思えます。

守るべきは人、それを守るのも人

私の住まいは都内の下町にあります。狭い路地に面して小さな木造家屋がひしめき合って立っているようなところです。古い街なのでご多分に漏れず高齢化が進んでいて、朝も昼も夕方も夜になっても、町内のおっちゃん、おばちゃんが道をぶらぶらしていたり、井戸端会議をしています(ちなみにこの井戸端会議を介して伝わる情報の伝達スピードは光通信並みです)。つまり住民の誰かが常に外にいてパトロールしている状況ができているのです。そして、おっちゃん、おばちゃんはその界隈の住人のことを個人情報に至るまで把握しているので、歩いている人が町の住人なのか、よそ者なのかを瞬時に判断することも可能。怪しげな輩が出没しようものなら、その情報は人的光通信網で町内中に行き渡り、みんなで警戒態勢に入れるのです。これぞ我が下町が誇る鉄のゾーンディフェンスなのであります。

何が言いたかったのかというと、守るべきヒトもモノもカネも情報も、結局は人が守るのが一番だということです。機械やシステムに任せておけばいいんだという安易な考えを持ってしまうところにこそリスクって奴は潜んでいる、ということを私たちは忘れてはならないのではないでしょうか。すべての安全・安心は、人間同士の信頼関係のもとでしか成り立たないのだ、と考えてしまう今日この頃なのです。

さて、今月もお付き合いいただき、ありがとうございました。来月までごきげんよう、さようなら。

第11話 完
2017年5月25日更新

テキスト:鯨井 康志
写真:岩本 良介
イラスト:
(メインビジュアル)永良 亮子
(文中図版)野中 聡紀